100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜

【第3回】 門松 武 1971(昭和46)年卒 投手 湘南高

―東大に入学された動機を教えてください。

父親が公務員になりなさいと言っていたのが動機かな。父親が教員で、公務員だったから行って欲しかったんじゃないのかな。昔の人は官と民をすごく分けて、官には尊敬の念を持つから官の公務員になって欲しかったんだろうね。

―東大を目指したきっかけを教えてください。

幼いころは読売ジャイアンツに入りたかったのですよ。だんだん自分の実力がわかるなかで、大学野球を最後の目標にしようという気持ちがありました。大学野球の中でも、やはり知性もあって野球も強いのが東京六大学野球しかないと思いました。六大学のなかで東大が弱いんだったら東大を強くしようと思い、東大の野球部に入るために東大を志しました。

―その後一年間浪人されたとのことですが、浪人時代の思い出はありますか。

浪人時代は日吉の叔父の家に下宿をしていました。その近くに慶應義塾大学の合宿所や雨天練習場があったので、よく見学しに行きました。ミットの音とかすぐ近くに聞こえるなか、慶應のピッチャーを見たりして、浪人時代はそういう野球の関わりでした。それで非常に生気を取り戻して、勉強も頑張るぞという思いでしたね。

―東大野球部に入部を果たしましたが、下級生の頃から期待されていたのでしょうか。

当初から期待されていたと思います。高校の時は甲子園出場した武相高校に0-1で惜敗するなど、実績はありました。
しかし、一浪して、上から投げるコツを忘れてしまったんです。 一年間は鳴かず飛ばずで、上から思いっきり投げても全然力が伝わらず、投球の「タメ」をうまく作ることができませんでした。そこで1年の冬頃に、当時の坪井監督(昭和10年卒・旧学習院高)に「下から投げてみろ」と言われて、数か月やってみたらうまくいって「タメ」ができるようになり、2年生の時に下手投げへの転向を果たしました。

―2年生春季リーグでの初出場は法政大学を相手に六大学の洗礼を浴びる形となりました。

今から見てもすごいチームですよね。 私が高校3年生の時にドラフトが始まり、それからは高校の選手が青田買いで大学を経由せずプロ野球に進むことが増えました。当時の上級生はそのドラフトが始まる前の世代なので、優秀でもプロに行かずに大学に来ています。そのころは強い六大学。だから同じ勝利でも当時の4勝は今とは違うんだという気持ちです。(笑)

この時は橘谷さん(昭和44年卒・都立西高)が先発で、初回に点を取られたんだけど、その裏に東大が山中から4点取ったんですよ。

―1回裏の段階では「勝てるぞ」という雰囲気だったのですか。

「いけるぞ!」とは思わず、「どうなってるんだ」という気持ちでした。 その後、橘谷さんが3回でおいつかれてしまい、私が4回から最後まで投げました。 この時に田淵に2本打たれましたね。このシーズンの法政は全日本選手権の駒澤戦も十数点取ってて、早稲田や立教も大差で法政に負けているんですよ。 この時の法政は特に異常でしたよ。プロでもすぐ活躍しましたからね。

―早稲田戦で初先発を果たしました。

そうですね。この時は谷澤、荒川などがいました。

―初打席で三振を挙げられたのですね。

ボールだったんだけど審判がストライクって言ってくれました。荒川は怒ってましたねぇ。 初登板の最初の打席だったのですごく印象に残っています。

―緊張されましたか。

そりゃあ緊張しましたよ。(笑) もうやけくそになって、腹をくくって俺が投げなきゃしょうがないだろという思いでした。

―昭和44年秋には開幕の明治戦で初勝利を挙げられました。

この模様はNHKのニュースにもなり、小林キャプテン(昭和45年卒・私立武蔵高)のご家族がラジオのテープに撮ってくれてました。

この時は早川さん(昭和45年卒・甲府一高)という素晴らしいキャッチャーがいて、ものすごく心強かったです。 早川さんはこのシーズンでベストナインに選ばれました。 ガタイが素晴らしく、東大離れしてましたね。

―勝った時の雰囲気はどうでしたか。

なんせ当時は人数が少なかったんですよ。 東大紛争で入学試験が中止になり、新入生は誰もいなかったです。 「安田砦の13人」などと呼ばれてましたね。 もちろん全員ベンチいりで、マネージャーにもユニフォームを着せたいくらいでした。

―祝勝会とかは開催したのですか。

やったとは思うんだけど忘れてしまいました。 当時は近所に「若竹」という行きつけのお寿司屋さんがあり、そこにいったのではないかと思います。

―このシーズンは慶應にも勝利を挙げました。

このカードは3連投でしたね。 一戦目は石渡さん(昭和45年卒・日比谷高)が勝利し、二戦目、三戦目は完投しました。 二回戦では、私が打った打球がレフトポールを巻いて入ったと思ったらファールと言われてしまったんですよ。もしそれが入っていたら勝ってたんですよ。この試合に勝ってたら4位でしたね。

―このシーズンは門松さんがフル回転ですね。

そうでした。石渡さん、岩城(昭和47年卒・戸山高)と3人でやりくりしていました。

―立教戦は2完投でした。

当然ですね。 立教戦は勝てると思ってたし、勝てなきゃだめだと思っていました。 ビビることなんかまったくなく、自分の投球ができれば大丈夫と思ってました。 アンダースローだったので、コースを少々外して投げても、今で言うツーシームというやつを投げていれば大きいのは打たれない、とそういう自信がありましたね。

―4年生になってからはどうでしたか。

4年生になってからは疲れちゃってダメでしたね。 一つしか勝てませんでした。

―その一勝は4年春の早稲田2回戦では自ら完封してサヨナラヒットという試合でした。

湘南で4番を打っていたこともあり、打撃には自信があったんですよ。 坪井監督にも上位打線を打たせてもらったこともありました。

―当時のライバルとして、印象に残っている選手はいますか。

同じアンダースローとして上岡(慶大OB)に負けたくはないと思っていました。 上岡より私の方が上だったんですよ。ある日法政の野口にトイレで「上岡より門松の方が上だ」と言われました。 そこで野口に言われたことで自信はありました。 そしてやっぱり、3年の全盛期の時に、山本浩二や田淵、谷澤や荒川といった法政や早稲田からプロに行った強打者と対戦したかったという思いがあります。

―大学の時の私生活はどうでしたか。

私は小学校からの幼馴染と結婚しました。 大学生の時は今の妻と交際してましたが、試合の後はいつも神宮球場で待っててくれました。 同期にも将来の自分の嫁として紹介し、同期と旅行に行くときも彼女を連れて行ってましたね。

―当時の印象的なエピソードがあれば教えてください。

当時は都バスで神宮まで来てましたが、一度東大が第一試合の時、第二試合で出てくる法政の田淵のプロテクターをバスに積んでしまったことがありました。バスでは赤坂あたりで気づいたのだが、法政の試合はそのせいで遅れてしまったんです。

―大学時代の学業についてはどうでしたか。

野球部に入るため、一番入りやすい理科Ⅱ類で入学し、学科も野球部に集中するためにあまり勉強しなくていい学科を選びました。農学部は野球の先輩も多く、野球メインの学生生活でした。

―卒業後工学部に学士入学されてますが。

当時の国分部長が土木工学科の教授だったのですが、先輩たちは大成建設に就職した人が多かったんです。自分も漠然と大成建設に行くのかなと考えていたところ、国分部長に工学部の土木工学科に学士入学することを勧められ工学部に進みました。

―土木工学科に進学後は。

当時の3年生は、東大紛争の影響で入試がなかった学年のため、進学者は自分を含めて数名しかいませんでした。 土木工学科に入学した後は、大成建設よりも役人の道を志すようになりました。 また当時は土木工学科の助教授であった岡村さん(昭和36年卒・土佐高)が監督になり、岡村さんの指名により助監督も務めました。

―建設省に入省後は。

役人は面白いですよ。国会議員、地方自治体、企業など相手がいろいろありますからね。 僕も河川局長まで務めることができ、成功した方だと思います。

―具体的にはどのような仕事をなさっていたのですか。

河川局では「ダム屋」として二つのアーチダムの現場に関わりました。 福井県の真名川ダムや広島県の温井ダムです。 「最後のダム屋」と自称しているんですよ。

―仕事で印象に残っていることは。

色々な方との人間関係が印象に残ってますね。土木技術は土木研究所が受け持ってましたが、我々は行政マンとして、ダムを容認してもらう地元との交渉、大蔵省との交渉、そして国会議員や国会への説明など、の役割を演じていました。アーチダムは経済性に優れ、コンクリートが薄いので非常に神経を要する構造でした。当時の地元の人とは今でもお付き合いがあります。 自分のことは置いといて、相手の人がどうすれば気持ちよく動けるか、そういったことに気を付けるように後輩にも教えていました。

―少し話が戻りますが、卒業後も野球を続ける可能性はなかったのですか。

4年生で精神的にも肉体的にも燃え尽きて全くやる気はなかったですね。

―今、東大野球部を振り返ってみてどうですか。

人生の中ではものすごい有難い存在で、人生の前半としてはやってよかったなと感謝する気持ちですよ。やりがいもあったし。後半も役人生活ですけども、思い通りの生活ができました。

―現役世代へのメッセージをお願いします。

早く一勝して欲しいです。 一勝できる体制には近づいてきていると思います。 あとは野手がしっかり打って、早く一つの成果を挙げられれば、バタバタと勝てるようになると思います。

門松 武(かどまつ たけし)プロフィール

○経歴

1947(昭和22)年小田原生まれ

1971(昭和46)年東京大学農学部林学科を卒業後、同大学工学部土木工学科に学士入学

1973(昭和48)年建設省入省

2008(平成20)年河川局長を最後に国土交通省退職

同年 財団法人日本建設情報総合センター理事長

2018(平成30)年 日本振興株式会社顧問

 


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