100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜

【第5回】 丹下 健 1981(昭和56)年卒 マネージャー 県立千葉高

―東大に入学された動機を教えてください。

野球をやりたいというのが一つと、もう一つは私の父親が東大の教員、千葉県にある東大の演習林の助手をやっていたんですよ。というのもあってわりと東大が身近ではあったというか。そんな感じですかね(笑)。 高校のときくらいに進路を考えて、そのときに林学をやろうかなと思って。林学というものも知っていたし、今の造林学研究室があることも知っていました。まあ家庭環境がそうだったからね。生物学をやりたいと思っていたのと、あまり遺伝子とか細かいことより植物を対象にしよう、個体レベル以上をやりたいなと思っていて、それで林学、造林学を選んだ感じです。

―入学前から東大野球部に入ろうとは思っていたのですか?

入ろうと思っていましたね。中学まで野球やっていたんですけど、高校時代は野球をやっていなくて。大学に入って、野球部に入れてくれと野球場に直接言いに行きました。

―高校のときに野球をやっていなかったのはなぜですか?

中学から高校を受験するときに、東京学芸大学附属高校と県立千葉高校の二つを受けて、学芸大附属に受かるぐらいだったら野球をやろうかなと思っていたんですけど受からなくて(笑)。まあ千葉高だったのでとりあえず勉強するかーと。野球部はあったけど入らずにひたすら勉強していました。

当時の小笠原文也監督(昭和44年卒・日比谷高)は情熱家で、東大カラーを変えようと奮闘していた人だった。徹底的にミスをなくすことを目標にして、相手チームが仕掛けてきたときにいかに防ぐかを考えて、その練習をたくさんしてきた記憶があるね。

―東大野球部に入ってからはどうでしたか?

一年間選手(外野手)をしていて、新人戦で春と秋に代打で1回ずつ打席に立って、春はちょっとだけライトを守りました。ちなみに春秋どっちも三振して終わりました(笑)。それからマネージャーをやることになって。マネージャーは誰かやらないといけなくて、一つ上のマネージャーの人からやれって言われたのかな。

―ご指名だったんですね。

断ったら野球部やめるかどうかという話ですからね。 最初の練習会から含めれば自分の学年はトータル20人くらい入ったけど、結局どんどんやめていって、8、9人くらいになって、マネージャーが決まらないことで辞めていく人もいて、最後は6人くらいになったかな。その中では誰かマネージャーやれと言われたらやるかという話になってはいたので、結局は自分がやったということですね。

―マネージャーになって苦労したことなどはありますか。

苦労というか…。別に仕事が大変なわけじゃなくて、最初は電話番とかだったので…。

1年生の2月くらいにマネージャーになったんですけど、4年生の神津さん(昭和53年卒・学芸大附高)は卒部して、3年生の人が辞めちゃったので、2年生の柏崎さん(昭和55年卒・栄光学園高)と二人で全部やっていたわけですよ。 最初は寮の留守番、電話番、監督のユニフォームの洗濯とか、そういう雑用ばかりだったから大したことはなかったかな。

 ただ4年生のときが当番校だったので、3年から見習いが始まるんですよね。 リーグ戦があるときに警察とか消防署とかに挨拶に行くんですけど、そういうのも全部ついていきました。4年生のときは通勤定期が支給されて毎日連盟事務所に行く感じでした。連盟行ってやることは、何か仕事するわけじゃなくて、連盟にいて色々なお客さんの顔を覚える、そういう感じかな。 野球界のいろいろな人との顔つなぎをしていた、それが4年生のときでした。

―そのような生活だと授業のほうはどうされていたのですか?

3、4年はほとんど授業に行ってなかった、実習も一つもとっていないです。なので一年留年しました。でも最初からそのつもりでいたので。親にも留年するからと言っていました。4年の冬に初めて実習に行ったのかな。

当番校だと自分の都合で休めないこともあるし、授業があるから出れませんとかはできないので。フルで対応するためにはこっちが切らないといけなかった。どっちみち大学院に行きたいと思っていたので、勉強するならきっちり勉強したいと思っていました。どっちも中途半端にはしたくなかったというのもありますね。

3年秋に研究室が決まったんだけど、最初に挨拶に行ってから1年くらい全く顔出さなかったら、そこの先生に「卒論どうするの?」と言われて「留年します」と。3年のときも造林の研究室の講義はとらなくて、4年のときは一応履修登録はして、けどほとんど講義は出なかった。そんな感じですね。

―大学院に行こうと思っていたのはなぜですか?

大学に残りたい、と思っていたからですね。研究職につきたくて、大学に残るか、どこか国の研究所に行きたいなと思っていました。学部の5年のときは国家公務員の試験と、千葉県と、大学院の試験を受けました。

―野球部在学時代の思い出や印象に残っている出来事はありますか。

一番記憶に残っているのは1年生の夏の合宿かな。釜石に合宿所と球場があってそこで合宿していました。あのときの監督が小笠原さん(昭和44年卒・日比谷高)で他にOBの方も来られて、面倒見てもらっていました。2週間くらいだったんだけど、とても暑くてすごいバテた記憶が残っています。そのときは選手として行きました。その前の年も釜石で合宿して小笠原さんが監督1年目だったのかな、そのときに1年生が脱走した事件があったそうです。それよりは練習そのものは多少ゆるかったと思うんだけど、きつかったよね。昔だから水飲まずに練習やるわけじゃない。ふらふらだったよね。

―学生時代の思い出はありますか?

3、4年が授業あまり行けなかったからほとんどないよね…。五月祭も駒場祭も行ってないからね…。

学科に一緒に進んだ同期の学年とはほとんど話したことはないですね。実習にも同期とは一緒に行っていないんですよ。3年生でとる実習が多かったので2つ下の学年と実習一緒に行っていました。

進学同期と卒業同期とあとまあ実習一緒に行った仲の良い人が何人かいる感じですね。

あと、定員が多くない割に当時林学に来る野球部員って多かったんですよ。駒場で2年留年した同期とは実習が一緒だったり、一学年下にも数人いたかな。 進学同期の人とはいま年に2〜3回くらい飲み会があって、それに参加したりしています。卒業してからのほうが会う機会が多いですね。

あと、東大野球部の同期で会うよりも六大学の同期のマネージャーと会う機会が多くて、特に法政と明治のマネージャーとは年に3、4回飲みに行ったり、バスケット見に行ったり(笑)。20年前くらいから会うようになったのかな。 慶應の人がちょっと遠くにいて、立教は同期のマネージャーがいなくて、早稲田は時々参加するから、4人で会うことが多いですね。

―部長になられた経緯はどういったものでしょうか。

東京大学が法人化する前の2年間かな、総長補佐というのをやったんですよ。各学部から一人ずつ出さないといけなくて。そのときに他の学部長の方々とお付き合いする機会があって、当時の佐々木毅総長が北海道演習林に来られることがあって、研究科長や総長補佐も一緒に行ったんですよ。そのときに当時の野球部長の河野先生が新領域創成科学研究科長を兼ねていたこともあって話す機会がありまして。野球部長ということは知っていたのでご挨拶に行ったら、河野先生から後任の野球部の部長をやってくれないかと言われました。河野先生があと何年かで定年になるのと、あと部の出身者じゃないと対応が難しい面もあることもあって次やってくれないかと。それで河野先生が辞められて野球部長になった感じです。河野先生と会わなければ多分部長をやっていないと思います。

―部長時代に印象に残っている出来事はありますか。

一つは最初の当番校のとき(平成22年)に、斎藤佑樹(早大OB)が4年生でいたときだったかな、秋季リーグ戦で早慶戦終わったあとに一日挟んで早慶の優勝決定戦があって、久しぶりに神宮球場が満員になって。その試合が終わったあとに閉会式をやったのが印象に残っていますね。久しぶりに満員を見たなあと。当番校だったから満員の観客がいる中で挨拶をしたというのも印象に残っています。

もう一つは最後の当番校のとき(平成28年)にハーレムベースボールウィークでオランダに行ったりしましたね。他の大学の選手と一緒に長期間ホテル暮らしも初めてだった。球場とホテルを行き来だけだったけど、なかなかいい経験だったなあと思います。

あとは最初の当番校のときにハワイのリーグが来て六大学のオールスターと試合をやったりしました。

部長をやっているときくらいからオールスター戦が増えたりして、新潟行ったり愛媛行ったりというのも多かったね。そういうときってわりと他の部長さんとも一緒だから親しくなったり、先輩理事の方とお酒呑んだりしました。 現役の部長の飲み会が年一回くらいで開かれているんだけど、そこにOBとして呼んでもらって参加したりしています。

マネージャーの同期だとか部長の先生とかと知り合える、他大学との繋がりができるという点で、今となってはマネージャーをしたり部長をしたりしていて良かったなと思います。

―マネージャーの先輩として現役のマネージャーにメッセージをください。

一つは字が汚いかな、メンバー表とかの。他大学の当時のマネージャーってけっこうきれいだった。もう少しきれいに書いてほしいかな。

あとは人数が増えたことの大変さもあるのかなと。大学の授業とか勉強との両立はしやすくなったんだろうけど、全体が分かっている人がいないかなという気もする。それぞれが分担するのは良いけど、チーフとかがちゃんと全体をわかっていないといけないかなと思います。

―最後に農学部教授として学生たちへメッセージをください。

やっぱり自分で考える習慣をつけることかな。言われたことやるわけではなく、何か活動するにあたって自分で考えて理解して説明できる方法をとる、そういう習慣をつけることで色々工夫ができるんじゃないかなと思います。

野球部の部長をやったときも、選手に対しては「打てない」「守れない」ときにどういうふうに工夫して練習するか、そういうことを考える頭を持たないといけないということは試合が終わったあとで話したこともあった。

それはどこでも通じることで、自分がマネージャーをやったときも、まず先輩のやっていることを見て理解して、やれと言われたらすぐできるような準備をしていたんですよね。いちいち指示を受けるのではなく、見たり聞いたりして理解する、そういうような姿勢なり習慣をつけるのが大事かなと。

勉強にしても単に覚えるのではなく理解をして知識を使えるようにするとか。 マネージャーの仕事にしてもなんで今これをやっているのか、これはどのような意味があるのかを理解しながらやることが大事で、これは働く上でも同じことだなと経験的には思います。

結局失敗したりしたとしても、言われたことやって失敗しましたじゃなくて、ちゃんと自分の立場として説明できることが必要だと思います。言われたことを言われたままやるのではなく、なんでこれをやるかという理解のもとにやれば失敗しないような工夫もできる、何かあったときに対応、説明ができるので。そういう習慣を身につけてほしいと思います。

丹下 健(たんげ たけし)プロフィール

○経歴

1958年(昭和33年)  千葉県生まれ

1977年(昭和52年)  東京大学理科Ⅱ類入学

1982年(昭和57年)  東京大学農学部卒業

1985年(昭和60年)  東京大学大学院博士課程1年時に中退し、東京大学農学部附属演習林助手に

1989年(平成元年)  東京大学農学部林学科助手

1995年(平成7年)    東京大学農学部林学科助教授

1996年(平成8年)    東京大学大学院農学生命科学研究科森林科学専攻助教授

2000年(平成12年)    東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林教授

2005年(平成17年)    東京大学野球部副部長就任

2006年(平成18年)    東京大学大学院農学生命科学研究科森林科学専攻教授

2007年(平成19年)    東京大学野球部部長就任(〜平成28年)

2015年(平成27年)    東京大学大学院農学生命科学研究科研究科長(〜平成31年3月)


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