100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜
―東大に入学された動機を教えてください。
父親が公務員になりなさいと言っていたのが動機かな。父親が教員で、公務員だったから行って欲しかったんじゃないのかな。昔の人は官と民をすごく分けて、官には尊敬の念を持つから官の公務員になって欲しかったんだろうね。
―野球部に入部された動機や経緯を教えてください。
中学校ではずっと野球をやっていて、高校の時は体を壊してしまってできなかったんだよね。医者から無理をしてはいけないといわれて仕方ないと思った。それで大学に入って、野球そのものは好きだったから、野球部に入りました。実は入学して1年目は陸上部にいて、でも野球がすごくやりたくて、それで練習を見に行ってなんとかなると思って2年生の時から入部しました。
―野球部に所属している間、勉強はどうされていましたか。
今の部員は勉強してるのかな。駒場にいる時は語学と体操なんかは出席があったけど。法学部に進学すると、今はどうか知らないけど当時は全然出席がなくて、試験の日を入れても2週間くらいしか学校に行かなかったなんてこともあったかな。
―野球部の練習はどのようでしたか。
厳しくもなく、しかし楽でもなく、だからやっぱり勝てなかったのかな。もともと経験がないのだから、もっとやるべきだったね。審判になってよその学校を見てるとものすごく練習をやってるもんね。
―野球部にいて印象に残っていることは。
僕が一番びっくりしたのはね、入ったときに監督は清水健太郎さん(昭和3年卒・旧一高)だったけど、実際に指揮をとられたのは岡村甫さん(昭和36年卒・土佐高)だったんだよ。まだ岡村さんが大学院生で指揮をやられて、野球もできて、17勝もされてる方で、勉強もできて。それで岡村さんから言われたのは、「お前らなんで同じ本を2回も読むんだ」って。世の中こんな人がいるのかってびっくりしましたね。東大ってすごいとこだなって思いました。
あと、僕たちが4年生の時に今の一誠寮が建ったんだよね。それで僕たちが初代なんだよね。だから半年間くらい、球場のネット裏にベニヤなんかで家作って住んでたんだよね。それでまだ壁が湿っている新しい一誠寮に入ったのは思い出だね。
―印象に残っている試合はありますか。
1つはやっぱり、自分が4年生の時に慶應に勝ち点を挙げた試合かな。4年生になって初めての試合で。1回勝つのはまだあるだろうけど、勝ち点を挙げるのはなかなか大変なことだからね。連勝して勝ち点を挙げたし。この試合が1番印象に残ってるかな。
もう1つはね、井手峻(昭和42年卒・新宿高)がいいピッチングをして、明治大学と途中まで0-0だった試合があって、センターを守っていたんだけど、2アウトでセンターフライがきて、サングラスをかけてなかったから捕れなくて負けてしまった。当時からサングラスはあったから使うべきだったのにそうしなかったのはどこか甘かったのかな。
それと、3年生の時の開幕戦が法政大学戦で、当時は東京大学は開幕の1戦目に割と勝ってたんだけど、その開幕戦で2-0で勝って、その試合でランナー2塁の時にセンター前ヒットを打って。打点を挙げたのは嬉しかったし、やっぱり思い出に残ってるね。
2つは嬉しい思い出だけど、井手のセンターフライを捕れなかったのは、今でも井手と会うと申し訳ないと思うくらいだね。
―野球部を卒部された後は。
大学を卒業した後は文部省に入りました。でも、4年間務めて辞めてしまった。それで司法試験を受けて弁護士になりました。
―文部省を辞められて、弁護士になられましたがなぜでしょうか。
実はね、僕の中学校の野球部の監督だった人が、そのころは知らなかったけど、司法試験の勉強をしながら先生をやってたんだよね。それで、野球教えながら司法試験の勉強をするなんてすごいなって思ってた。司法試験を受けたのは、その先生の影響はあったと思うね。
それと、弁護士になったのは、2年間の司法研修の時は検事の仕事がすごく面白いと思ったんだけど、その時は審判になって5年くらいで、審判がすっごく面白くて。検事になったら転勤あるし、公務員が審判をできるような時代じゃないから、弁護士になったんだよね。審判がやりたかったから弁護士になった。弁護士になった時は父親から怒られて、口もきかない時期もありました。不愉快だったのかな。
―審判をなさっている経緯を教えてください。
六大学の各校から3名、必ず野球部のOBから出さなければいけなかった。東大だと一誠会の会員でないといけない。僕が卒部した時、坪田宏(現姓浜野・昭和34年卒・神戸高)さんが転勤になって審判を誰かがやらなくてはならなくなった。僕は留年していて、一番暇だったからやってくれないかという話があって。それでやってくださいと言われて、野球が好きだったし、2、3年ならできるだろうということで気楽に引き受けて。40年もやるとは思わなかったけれどもね。とても偶然なことでした。今は、審判技術顧問をやってるけど、やっぱりグラウンドに出て選手と一緒に動かないとね。
―審判時代の思い出を教えてください。
審判の時の思い出はたくさんあって話し出したら終わらなくなっちゃうね。 最初の時に、他の大学の選手はすごいことを言うなと思ったことがあって。立教大学のセカンドに秋山君(秋山重雄・昭和44年卒)という選手がいて、彼がセカンドできわどい盗塁を俺が「セーフ」って言ったんだよ。そうしたら、「あれがセーフかよ。俺らは死に物狂いでやってるんだぞ。しっかり見ろ。」って言ったんだよ。こういう口をきく選手がいるのかと思ったね。一生懸命だったのかもしれないけども。
―現在は審判技術顧問を務めていらっしゃいます。
今は、審判技術顧問をやっていて、東大の試合を担当することが結構多いんだけど、東大の試合を見てると、やっぱりきわどいプレーは東大有利に見えてしまうんだよね。きわどいのは全部セーフに見える。それで審判がアウトって言うと、バカヤロー、それは違うだろって思う。そこで、こういうことを40年間も思われながら審判やっていたことに気づいてぞっとしたね。
―今の東大のチームはいかがですか。
高校生のように無我夢中でやれているように思える。そこが人気の理由かもしれないね。池田高校の蔦文也監督がおしゃっていた「負けることは不名誉なことではない。不名誉なのは負けてダメな人間になることだ。」ということを言っているんだけど、東大生はダメな人間にならないところがいいね。ただね、もうちょっと元気をだしてもいいんじゃないかな。浜田監督(現野球部監督・昭和62年卒・土佐高)みたいなむき出しの闘志を持ってもいいかもしれない。もうちょっと感情を表に出してもいいのかもね。
―清水さんにとって東大野球部とはどのようなものですか。
自分を育ててくれたところというか、自分にすごく豊かな人生を歩ませてくれたところとしか言いようがないな。東大野球部員であったことで非常にたくさんのことを経験させていただいて、ありがたいところでしたね。どこかに戻れるなら東大野球部にいたときに戻りたいね。
清水 幹裕(しみず つねひろ)プロフィール
○経歴
昭和17年 愛知県生まれ
昭和37年 東京大学文科Ⅰ類入学
昭和41年 東京六大学野球審判員となる
昭和42年 東京大学法学部卒業
昭和44年 文部省(現文部科学省)入省
昭和50年 弁護士登録
平成20年 審判員を引退し、審判技術顧問となる
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