100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜

【第6回】 大越 健介 1985(昭和60)年卒 投手 新潟高

―東大に入学された経緯を教えてください。

高校2年生の夏の大会でキャッチャーとしてベスト4になって、チーム事情でピッチャーとなった高校3年生の夏はベスト8まで行きました。夏の大会が終わった直後は、もうこれで野球は終わりだと思ったんだけど、一晩寝たら翌日からまたやりたくなったんです。東大以外の五大学はやはり野球エリートだけが行くところっていう認識があって、新潟の普通の公立高校から自分が行けるとは思わなかった。逆に言えば東大以外選択肢がなかったって感じかな(笑)。自分は野球しかやってきてないから、これから勉強すれば伸びるだろうという根拠のない自信もあった。現役ではとても追いつかなかったけど、1年間御茶ノ水で予備校に通いながら浪人して、無事合格できました。浪人中から練習も見学に行っていたので、早くここに入りたいなと思っていましたね。

―サイドスローを始めたきっかけについて教えてください。

高校3年生でピッチャーをやっていた時はきれいなオーバースローでした。それから大学に入ったときは自分の体の小ささも考えて、実は内野手をやりたかったんです。3万円もするゼットのセカンド用のグローブを買ってアピールしたけど、素性がバレて1年生の夏からはピッチャーとして合宿に帯同した。ピッチャーをやる運命にあるとわかった時、自分のオーバースローの綺麗なボールでは、他の五大学に打ち崩されるだろうなという感覚がありました。だから1年夏のオープン戦の中で少しずつ腕をスリークォーターまで下げていった。1年秋を経てアンダースローと言うよりもこのときはサイドスローかな。サイドスローは無理なく投げれられたので、感触を掴んで2年の春から先発させてもらいました。

―入部当初の野球部の印象はどのようなものがありますか。

僕らの代は鮮烈な印象があります。武道館の入学式を終えて、新人部員は神宮球場のスタンドで観戦したんだけど、その時が初戦でなんと法政に3-1で勝ったんです。「赤門旋風」って言われた年なんだけど。やっぱり雛鳥が最初に見たものを親鳥だと思うのと同じように、当時1年生で雛鳥だった僕らは、初めて見た先輩たちが当然のように法政に勝つ。雛鳥とすれば、自分たちも当然勝てるチームにいるんだという意識を保つことができた、それがすごく印象的で後々大きかった。その時のシーズンは6勝7敗で、途中まで優勝するんじゃないかって言われてた。立教の4連戦で負けて優勝の夢は断たれるんだけど、エース大山さん(昭和57年卒・学芸大附属高)、キャプテン大久保さん(昭和57年卒・湘南高)っていうメンバーで、その4年生を見ていて、東大野球部って決して負け続けるところじゃない、頑張れば勝てるっていうある種のマインドセットができたことが東大野球部の4年間の中で本当に大きかったと思います。

―4年生の先輩が引退された後について教えてください。

同期は盛岡一高の八重樫とか、1つ下には国立高校で甲子園球児の市川、2つ下には浜田(現監督、昭和62年卒・土佐高)と各地から良い選手が来ていた。もちろん力は他大学よりも相対的に劣ったけども、心理的にゲーム運びで優位に立てれば十分勝つことは可能だっていう、自信というよりは思考があったよね。勝つことがそれほど大きな壁じゃなかった。だから年間9勝した4年生が抜けた後も、もちろん戦力的には落ちたんだけどどっかで勝つんじゃないかなっていうのは思ってたし、実際に2年の秋には初勝利をあげてるし、だからやっぱりその先輩たちの影響が大きかったです。

―大学日本代表に選出された時のことについて教えてください。

あれは3年の春のこと。僕は1年の春から脱臼癖があったんですよ。内野手志望で張り切りすぎて、ノックを受けて飛び込んだ時に左肩を脱臼しちゃった。それが1年の春からずっと続いていて、いつも脱臼との戦いではあった。それで3年の春も脱臼をやってしまって、初戦の慶應戦かな、三塁打を打って滑り込んだ時に結構深刻な脱臼で、救急車で運ばれました。でもそこから逆に手負いの虎じゃないけど、自分の中でスイッチが入って、テーピングでぐるぐる巻きにした上で1週間で実戦復帰しました。そうしたら早稲田に連勝して、法政には負けたんだけど、7回2アウトまで1安打みたいな良い投球ができました。それがまあ投げ方のきっぷがいいってことでおそらくセレクションで選んでもらったのかな。あとは当時まだアメリカの選手たちっていうのは、サイドハンド、アンダーハンドに慣れてない、つまりその方が通用するっていう考え方があって、本格派でないサイドハンドのピッチャーとして選ばれたんだと思いますけどね。

―最終シーズンはいかがでしたか。

秋は本当に良い試合ばっかりで負けていました。競った試合だったんですよ、みんな。春の戦いぶりからしても、うまくいけば俺たち結構いけるんじゃないかっていう気持ちをずっと持っていた。だけど、モノにできそうな試合を落とす、少なくともカードで1勝2敗には持っていけそうな中で勝てないっていう、じりじりとした苦しい展開で8連敗。最後はもう開き直って行こうよっていうので立教には勝って、2戦目は落としたけど3戦目で勝ちました。最終シーズンは自分たちが持っている力を出し切れなかったという悔いの中で、最後のカードでなんとか勝ち点を挙げて終われたっていうのだけは救いでした。

―卒業後の進路としてNHKを選んだ理由を教えてください。

大学の3、4年、特に4年で自分の投球はこれで限界だなって思いました。体も小さいし、サイドスローでシュートピッチャーだったから肘も結構酷使してて。試合になればアドレナリンが出て投げられるんだけど。これで野球はたとえ肘が壊れてもいいので終わりにするっていうつもりでやっていました。マスコミに入りたいっていうことを考えたっていうより、社会人野球からのお誘いに応じられないなっていう自分の野球の限界を感じていたので、そこからじゃあどうするかって考えました。元々関心のあったメディアっていう仕事は、当時は今と違って、4年の11月一発勝負みたいな感じだった。それまで問題集で勉強をして、まあ失敗したら留年すればいいや、受からなかったら受からなかったでしょうがないっていう気持ちでNHK一本に絞って受けて、結果的に入ることができました。

―NHK入局後はいかがでしたか。

NHKの記者の場合は、入社後全国に一斉に散らばるんです。僕は岡山が初任地なんですけど、岡山で4年間を過ごして、その後で政治部に誘われました。政治取材って、その時のキーパーソンの懐にいかに飛び込むかが勝負。情報の真相をどう取るか、特ダネ競争もそうだけど、特ダネを抜かないまでも間違った方向のニュースを出さない。NHKのニュースは絶対に間違っていないという世間での常識を維持し続けないといけない訳だからまあ忙しかった、責任も大きかったし。自分にとって運が良かったのは、取材をする中で魅力的な政治家に何人も出会って、その人が考えている魅力的なこの国の姿であるとか今起きている問題への対処の仕方であるとかに触れられたこと。政治家っていうと悪代官みたいなイメージがあるけど、中には高い志を持ってやっている人も多いわけで、そうした志に触れて、今起きていることの本質は何かってことを自分なりに探求したこと、いくつかの政権交代の渦中で取材の一線を張り続けることができたっていうのは自分の中で非常に大きかったですね。世の中というもの、政治というものを知る上でも。

―記者になられてから野球部での経験が役に立ったことはありますか。

無かった(笑)。当時は本当に忙しくて、申し訳ないけど六大学もほとんど見る余裕がなかった。やっぱり体力的には「お前野球やってたから強いよね」って言われることが多かったっていうぐらいかな(笑)。

―キャスターになられた経緯を教えてください。

政治部に16年いて、与党キャップまでやって、ある程度現場ではやり尽くしたところまで行っていたので、この後は渋谷でのデスク業務に上がるのかなって思っていました。ところが急遽ワシントン支局を4年間担当することになった。最初はなんで自分がワシントンって思ったんだけど、当時オバマ大統領を生み出す歴史的な選挙を取材できたっていうのはすごく大きなことでした。国内の政治は16年間身に染みてわかっていたけど、一方でワシントンを舞台とする国際政治、それからアメリカ社会を学べたっていうのは結果的にものすごく良かった。将来いずれキャスターにという考えが上層部にあって、そういうことを経験させてくれたんだと思います。日本に戻ってきてから「ニュースウオッチ9」のキャスターになりました。

―キャスター時代には野球部での経験が役に立ちましたか。

キャスターはやっぱり文字通りニュースをキャストする仕事。ニュースって生き物なので、その日のニュースをどう捌くかっていうのがニュース番組で、アナウンサーでなく記者出身の人間がキャスターをやるっていうのが意味があると思う。もちろん自分一人でやるわけじゃないけど、これはこう出して伝えようだとか、あれはオーダーとしては前に持ってこようだとか、ここではこういうことを語れるんじゃないかとか。ジャーナルを目指すっていう志のもとで、ニュースを配置していく、そのニュースに対して自分の言葉でコメントをつける。それはある程度の経験を積んで、ある程度の度胸があって、という人間がやる仕事。まあピッチャーをやったおかげで度胸だけはあるから、キャスターをやっている時っていうのは野球部でのピッチャー経験は大きかったと思います。更に言えばピッチャーってその空間を支配するんです。単調になって打たれるのもピッチャーの責任だし、逆に空気を変えてうまい具合に相手の気をそらすことや、調子のいい時にはテンポアップして攻めていくこともできる。ゲームを支配するのはピッチャーだと自分は考えています。それってニュースキャスターのスタジオ運営も共通で、自分が喋らないと始まらない、ピッチャーも自分が投げなければ始まらない。それで観客もベンチもバックもバッターも、みんながピッチャーを見ているわけだけど、それはキャスターも同じ。キャスターをやってる時にはピッチャー経験っていうのが本当に活きたなと思います。

―サンデースポーツのキャスターになられた経緯を教えてください。

「ニュースウオッチ9」のキャスターが終わって3年間世界放浪をしました。世界を見に行って自分で取材、リポートをして番組を作るっていうのをやっていたんだけど。途中からスポーツだとか政治だとか経済だとか社会だとか、ジャンル分けってそもそも意味があるのかなって思い始めて。人間の営みを取材する仕事っていうのは、それを正確に掴んでより深く掘り下げた上で世の中に伝えるっていう仕事は、正直言って便宜的にスポーツだ、政治だって区切っても区切らなくても同じだと思いました。だからスポーツをやるってことに違和感はあまりなかったというか、スポーツを通じてやっぱり人間の営みを伝える訳だから、ジャンルは逆になんでも良かった。でもNHKの放送を通じて自分が一番力を発揮できることは、自分で取材をして自分の言葉で伝えるという、記者でありキャスターであることが一番いいと思ったのは事実です。しかも2020年に東京オリンピックパラリンピックっていう社会変革が来る。それに向けて世の中を単に盛り上げるんじゃなくて、せっかくのこのチャンスを後世にとってより良い社会にしていくきっかけにしたいと思いました。最近だとスポーツを通じて見えてくる社会の矛盾、古い日本の体質っていうのが一気にあぶり出されてきて、それはやっぱりある種のオリンピックのレガシーだと思うんですだよね、もうすでに。単にスポーツを取材してるんじゃなくて、社会現象を取材しているのだと思います。スポーツを通して我々人間の営みを、良きにつけ悪しきにつけ見ることができるっていうのが今の一番の面白さで、そういった意味で入口はなんでも良かったんですよ。

―現役の投手陣に向けてメッセージをお願いします。

先ほどの話と重なるんだけど、場を支配して欲しいと思います。東大の投手陣も臆することなく、飄々とその空間を支配して欲しい、それでその自分の空間の中に相手を引きずり込むような投球をしてほしいですね。多少球威なんて無くたって抑え込める。今この歳になってようやくわかったことなんだけど、空間を支配することが大事なんだと本当に思います。

―32連敗中のチームにメッセージをお願いします。

勝つ味を知らないと次の勝ち方もわからないものですよね。勝つのは大変なことではあるけれども後輩につなげるためにも、どんな手を使ってもいいからとにかく1回勝って早く勝ちの味を知ってほしい。勝ちっていうのはこういうことなんだっていうのは、プレーしている選手のみならず後輩にも必ず繋がっていくので。戦力的にそんなに楽じゃないのもわかっているけど、この前の坂口くんみたいに明治大学相手にあそこまでやれるケースもあるわけだから、勝つ味をぜひ覚えていただいて。東大が勝つパターンっていうのはどういう時なのかを、今のチームカラーに応じて、このチームの勝ち方ってどういうことなんだろうってことを突き詰めてほしいなと思います。

―最後に現役部員に向けてメッセージをお願いします。

アスリートになってほしい。東大野球部員っていうよりは、チームの勝利のため、ひたすら自分に対して真摯な姿勢で最大のパフォーマンスを発揮できるようなアスリートを目指してほしい。それは将来のためになるからなどではなく、今を完全燃焼するためにすごく大事だから。今自分は明確な希望がないとか、生きる指針がないとか、将来が不安だとか、気持ちはわかるけどもそんなのは当たり前なので、今その一瞬一瞬を完全燃焼する、どうせ悔いは残るけれども、できる限り完全燃焼するっていうのを目指してほしい。東大の野球部っていう恵まれた環境で、神宮を舞台に野球をやれるっていうのは選ばれた人たちなんだから、選ばれた人たちの責任として自分なりのアスリート像を在学の4年間で見つけてほしいと思います。どうせいつかは考えざるを得ないんだから、せめて野球をやっている間は、野球部員をやってる間はあんまり先のことは考えなくていいと思います。

大越 健介(おおこし けんすけ)プロフィール

○経歴

1961年(昭和36年)  新潟県生まれ

1985(昭和60年)  東京大学文学部国文学科を卒業後、NHKに入局

2005(平成17年)  ワシントン支局特派員に就任

2007(平成19年)  同支局長に就任

2010(平成22年)   「ニュースウオッチ9」のキャスターに就任

2018(平成30年)   「サンデースポーツ2020」のキャスターに就任


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