100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜

【第8回】 石田 和之 1995(平成7年)年卒 内野手 菊里高

―東大を目指したきっかけを教えてください。

もともと高校野球の先のことを考えていませんでしたが、当時高校の先輩で京都大学と横浜国立大学の野球部に行っていた方が練習に来ることがあり、大学野球を意識するようになりました。横浜国立大学行っていた方から大学で野球やるなら慶應がいいんじゃないかと聞いて、高校2年の冬に東京に来る機会があったときに慶應と、参考までに東大のグラウンドに行ってみました。高3の夏に慶應が主催している練習会に参加したのですが、全国から5、60人高校生が来て、なかなかの実力者が揃っているし、僕の実力だと厳しいかな、と。そこで東大を本気で考えるようになりました。 当時は70連敗の時代で、そういう話題で多少メディアにも出ていたので、自分が入部して強くしたいなという思いもありました。

―1年生の秋季リーグ戦で初出場を果たしますが、その時のことは覚えていらっしゃいますか。

夏のオープン戦も出させてもらって、体が華奢でヒットは打てていませんでしたが、守備は評価されていていたかなと思います。 秋のリーグ戦はベンチには入れると思ったけれど、開幕戦がスタメンで、「え、そうなの?」と思い緊張感もありましたが、嬉しかったし楽しかったですね。最初の3試合はスタメンで使ってもらえて、その後は先輩の方が調子が上がってきたので途中から出場、という感じでしたが、守備は問題なく出来ていたかなと思います。同期ではセンターの濤岡(県立千葉高)とサードの片山(横浜翠嵐高)と3人スタメンで使ってくれて。平野さん(昭和53年卒・戸山高)が監督就任1年目ということで新しい戦力を使ってくれたのではないかと思います。

―2年生からはレギュラーに定着しました。

2年生の時は全試合出ましたが、春も3本くらいしかヒットを打てていないし、打率は年間で1割5分くらいかな。守備はそれなりに出来たけれどバッティングは通用せず、代打を出されたりしました。秋のリーグ戦の最後の方は1つ下の学年に内野手が何人かいたので、最初に下の学年がスタメンで出て、代打を出して、さらに代打を出して、その後最後の守備に僕が、ということも多く、やはり守備は評価されていたのかなと思います。

―3年生の春のリーグ戦ではベストナインを獲得されました。

3年生になったときに、去年全然戦力になれていない、勝ちに貢献できていないと思いました。守りができても役に立たないという思いがあったので、試合に出たいけれど、ただ守りで出るのではなく、打てないとだめだなと思うようになったんですよね。 開幕の10日前くらいに大沼さん(昭和49年卒・仙台一高)が指導で来てくださった時にやった練習が少し変わっていて、自分ではやってみて違和感があるけれど割と良い打球が飛んだりして、何か掴んだような感じがしました。それで開幕を迎え、開幕2試合では1本しか打てませんでしたが、次の週に4本ヒットが打てて、大沼さんに言われたことがなんとなくできるようになってきたのと、それまで出場経験もあるので段々と対応もできるようになっているのを感じました。 あとは2年生の秋の新人戦でひどい捻挫をして、冬は体づくりをしなければと思い、初めてスポーツマッサージに行ったときに「君の体は野球をやる身体ではない、硬すぎだ。」と言われて。それでトレーニングやストレッチをして、体つきが良くなってきたりしたのもあります。 2年生までの打席経験、体が出来てきたことと、大沼さんからアドバイスをもらったことで打てるようになってきて4カード終了時点で安打数は10本くらいでした。それまでは下位打線だったのが上位打線も打たせてもらえるようになって、打てるようになったのを実感しましたね。最後の立教戦の試合は4試合行ったのですが、3安打しか打てず打率を下げてしまって。立教のエースの川村(平成7年卒)投手に対してあまり相性が良くなかったんですよね。 リーグ戦が終わって、当時は学生コーチもいないし、助監督もいない年だったので、指導者志向ということもあり新人戦の指揮を執ることになりました。なので新人戦の練習をしていて、閉会式に行っていないんですよ。それで連絡が来てベストナインだ、と。周りもえっ、という感じだし、自分も驚きました。 ベストナインを獲れた理由としては、他大学のセカンドがあまり固定されていなかったこと、他のセカンドの成績が良くなかったことが大きいです。

―また、秋には40年ぶりの勝ち点を挙げました。

法政はその春に引き分けていて、割とやりやすい感じはありました。秋は初戦は負けたけれど2戦目3戦目はロースコアで勝てたんですよね。その時代勝てていた要因として、高橋(平成8年卒・北野高)という1つ下のピッチャーの存在が大きかったですね。高橋は勝っている試合で出てきて逆転されることがないピッチャーでした。勝ち点を挙げたその2試合も、高橋が最後の3回ぐらいを抑えてくれました。

―勝ち点獲得直後のチームの雰囲気はいかがでしたか。

お祭り騒ぎのような感じでしたね。当時は神宮球場へ行くのにバスが出ていて、車内ではしゃいでいる写真が新聞に載ったりしました。そのあとから取材が増えて、TBSが追いかけてくれたりしました。次の早稲田戦の2戦目は試合自体は負けましたが、僕が初めてホームランを打てて、それをTBSで全国に流してもらったりしました。それは嬉しかったですね。

―4年生の春のリーグ戦では惜しくも単独5位とはなりませんでした。チームの皆さんはどのように感じていらっしゃいましたか。

僕らの世代は結構期待されていたように思います。濤岡は全日本代表の候補になったり、東大の三塁打記録、盗塁記録を持っているすごい選手でしたし、同期のキャッチャーの北村(金沢泉丘高)も良い選手で当時の高校野球の雑誌をみると石川県のナンバーワンの打者って書いてあったくらいセンスがありました。サードの片山も体格が良くてパワーは抜群。 下の学年にも高橋に加えて首位打者を獲った間宮(平成8年卒・横浜翠嵐高)や、小原(平成9年卒・県立千葉高)がいたので、もっといけるだろうという実感はありました。 そのシーズンは4つ勝って、4つ1点差で負けて、そのうち2つは9回で逆転されて。もっと勝てたな、と今でも思いますが、そのことを後に平野さんに話したら勝てそうな試合が8回あって、その中の半分勝てたのはいい方なんじゃないかな、と言われました。これが春のリーグ戦です。 秋は、勝ち点を挙げた最終カードの立教戦で1戦目は負けましたが、2戦目で尾崎(平成7年卒・海城高)が完封勝ち、3戦目も濤岡が先頭打者ホームラン打ったりして12-1で勝ちました。その試合、僕は1イニングで2回アウトになったりと5打席ノーヒットだったんですけどね。自分が打って勝てた試合はそれほどなくて、みんなに勝たせてもらった感じでした。

―同期の方にはライバル意識を感じていましたか?

僕が打つとみんながっかりするんですよ。ホームランになりそうな当たりが風で押し戻されてフライアウトになった時に、僕がベンチに帰ってくるとみんな喜んでて、「やられたと思ったよー」と笑われたりしました。ある意味チームとして余裕があったのかなとも思います。打ってくれ!という雰囲気ではありませんでしたね。

―大学時代の私生活はどうでしたか。

勉強はしていなかったですね。語学と体育は比較的授業に行っていたけれど、他は行かなくても大丈夫だからと先輩に言われて真に受けて行っていませんでしたね。追試も受けました。野球以外に興味の持てる分野もなかったので教育学部の身体教育学科(当時は体育学健康教育学科)に進学しました。3年生からキャンパスが本郷になるからといって授業に必ずしも出席していたわけではありませんでしたが、学科の先生は理解してくれたし、単位はもらえていました。 寮の印象は、1年生で初めて練習に参加した日に着替えに行った際、ここに本当に人が住んでいるのかなと思うほどでしたが、結局3年間住み、違和感無くやっていけるものだな、と思いましたね。自由時間には誰かの部屋に集まって、何をするでもなく漫画を読んだり、ゲームをしたり、ドラマを観たり、などしていました。

―当時の練習はどのような感じでしたか。

全体の練習はそれほど長くないんですよ。バッティング練習が中心で、守備の練習はそれほどしませんでした。レギュラークラスがバッティングをして、その後に他の人がバッティングをして終わりという感じだったと思います。平野さんは守備練習については時間を取らないから、バッティング練習中に守ればいいという方針でした。僕はバッティング中の守備練習が好きでしたね。シーズン中はシートノックすらほとんどやらなくて、とにかく打たなきゃしょうがないという感じでしたね。全体練習後に自主的にトレーニングしたり、結果的には夜までやっていました。

―卒部後5年間助監督を務められました。きっかけはなんだったのでしょうか。

東大野球部以降の生活を何も考えていない中、周りは就職活動をしていて、焦るというよりはみんなが大人になってしまうようで寂しさを感じました。とはいえ野球にはずっと携わりたかったので、平野さんにも大学に残ったらどうだと言われ、大学院に進学しました。当時は助監督は大学院生がというのが既定路線で、僕もその流れで助監督をやりました。学問がしたくてというよりは野球をやる道を探して大学院に入ったという感じですね。

―就職先はどうやって決めましたか。

国立スポーツ科学センターが2001年に発足した時に、若手研究員をたくさん採用してくれるということで、僕も学問を突き詰めるというよりはスポーツに携わることがしたかったので応募しました。一流選手が国際大会に行く前に必ず体力テストや検査をする機関で、その測定の担当をしました。シンクロの大会に行って水中カメラで演技の様子を撮影したり、それまであまり触れていなかった生理学の実験を手伝ったりしながら、色々な競技の人を見られたのは面白かったです。

―次に読売巨人軍に就職したきっかけはなんだったのでしょうか。

僕が大学院生の時に平野さんのところに、ジャイアンツの方が選手のコンディショニングについて相談に来たんですね。何も資料がないと分からないので、定期的に簡単にできるパワーテストをやって、シーズン中の疲労でパフォーマンスが落ちるかなど確認しようという話になりました。選手を対象にした月1回のパワーテストの資料のまとめを僕がやっていました。その後、国立スポーツ科学センター所属中もそれを続けていて、3年の契約期限が切れる際にジャイアンツで正式に働くことになりました。 その後、その方が人材交流で数ヶ月キューバに行った時に、人口が少なくても競技力を保っているのはどこへ行っても同じように子どものころからマニュアル通りに指導して、その情報が集まってナショナルチームができていることを見てきました。 同時期にFC東京の話も聞いて、Jリーグはユースチームや小学生、幼児向けのスクールを作っていて、普及、育成に努めている一方、野球にはそのような組織が無く、サッカーに人が流れていってしまうのではないかという話になりました。少年野球はチームも誰かのお父さんが指導していたりして、しっかりとした指導を受けられていないケースもあるし、このままではまずいねと。あとは、公共のグラウンドで有料の講座を開くことが認められてきたり、と色々なことが合わさって、まずは都内2か所で子ども向けの野球のスクールをやってみよう、となりました。元々のコンセプトは一流の経験を持った人しか教えられないのではなく、誰でも教えられるように内容をシンプルにする。1つずつ段階を作って、幼稚園児はこれくらい、低学年はこれくらいできればいいというような基準を作るというものでした。やっていく中で形は少しずつ変わりましたが、コンセプトは変わっていません。 実は大学院時代のテーマが子どもの動作の発達過程ということもあり、子どもがいかに上手くなっていくかとか、どの年齢でどれくらいできるようになるのか、に興味があったので、この事業に携われたのはありがたかったですね。

―仕事で印象に残っていること、やりがいはなんでしょうか。

スクールの生徒たちが楽しそうにしてくれていたり、親御さんに感謝してもらえたりすることですね。あと、場所によっては人数が多すぎて定員オーバーでキャンセル待ちの場合もあるのですが、空きが出て電話をして「次は入れますよ。」と伝えた時に喜んでくれると嬉しいですね。あとは、グラウンドを貸してくれる役所の方も含め、どこへ行ってもやっている活動は前向きに評価してもらえる、認めてもらえていることもありがたいことだなと思います。

―石田さんにとって東大野球部はどのような存在でしょうか。

もともと東京を目指す意識は無くて、野球を続けていてこのまま終わりたくないと思っていたところ、東大に出会いました。そして、運良く入れて、入ってみたらすごく楽しくて、そこから抜けられなくなって9年間。色々な出会いがあって、東大に来たことで今の生活もありますし、人生はそこで変わりましたね。 あとは、チャンスをくれた場所ですよね。無名高校の無名選手だった自分に神宮のグラウンドに立つチャンスをくれた場所です。野球で選抜されてこなかった人にとっての最後のチャンスだと思うんです、東大野球部は。僕にとってはそういう位置付けですね。

―最後に、現役世代へのメッセージをお願いします。

野球についてはみんな一生懸命やっていると思うので、心配する必要はないですけど。 進路についてもたぶん考えていると思います。僕みたいにただ野球が好きで生きてるだけではちょっとまずいね、という感じですかね。 あとは、学生時代に他の経験がもっとできたんじゃないかなって思っていて。せっかくの学生時代なので野球に熱中するのも良いですけど、それ以外の時間がないわけではないから、他のこともやってみるべきではないかなと思います。

石田 和之(いしだ かずゆき)プロフィール

○経歴

1972年  愛知県名古屋市生まれ

1991年  東京大学理科Ⅱ類入学

1995年  東京大学大学院教育学研究科進学

1995年  東大野球部助監督就任(〜1999年)

2001年  国立スポーツ科学センター

2004年  読売巨人軍

2006年よりジャイアンツアカデミーに携わる

 

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