100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜
【第1回】 田和 一浩 1957(昭和32)年卒 マネージャー 都立北園高
―東大入学までの経緯を教えてください。
東京の公立高校は学区制でした。東大入学者の上位10校は都立8校、教育大附属、湘南でした。文京区は豊島区、板橋区と同じ学区で都立小石川高と私の出身都立北園高が10位に入っていました。そして東大だけを志望して受けて、幸い入りました。
―入学前から野球部に入ろうと思っていたのでしょうか。
全く思っていなかったです。何をするかはっきりしておらず、とにかく入ることに一生懸命でしたね。当時は文科一類が法科と経済ですから、経済学部に行こうと思い、文一を受けました。
―野球部に入部した経緯を教えてください。
私は英語とドイツ語で受験したので、文一のドイツ語既習クラスに入り、そこで後の主将であった故南原晃(昭和32年卒・私立武蔵高)にスカウトされました。4年次に東大が当番校になることが判っていたので、野球部ではマネージャーを懸命に探していました。私は体育の授業で柔道を選択して、夜は道場に通い黒帯を取得しましたが、野球部に入ったことでその後の人生が一変したということです。
入部して故真田幸一先輩(昭和27年卒・旧学習院高)からマネージャーの心得を教わったのがその後も役立っています。東大産婦人科の医師を勤めながら審判員を務められました。
―野球部在籍中の印象に残っている出来事はなんですか。
最上級生の春10戦10敗に終わり、連敗打破のため夏には卒部した若手の先輩が順番に会社の休暇をとって練習に参加してくれたんです。今のように年間16の休日がある時代と違い、9日のみで土曜は半ドンですから、勤めている人は大変な犠牲を払って来てくれたんですね。秋の開幕試合で早稲田に1対0で勝利し、先輩共々感涙に浸りました。秋のシーズンは3勝1分10敗で勝ち点がなかったため最下位に終わりました。
―当時のチームの雰囲気はどのようなものでしたか。
負けが続いていると、帰っても面白いはずはないわけだけれど、それでもそんなにトゲトゲした空気は全くなくて。練習の時間が今と全く違っていたんですよ。午前中は授業に出て、昼食後に当番が大きな声で「衣替え!」と叫ぶんです。そうやって号令をかけると、みんなが「練習かー」と言いながら、ユニフォームを着て、グラウンドへ行って、夕方まで練習して、それで帰ってきて一緒に皆で風呂に入って、食事して、と。そういう練習の仕方だったんですね。その頃はほぼ全員入寮できるような部員の数だったんです。
―田和さんも「衣替え」は叫んだんですか。
私も叫びました。だんだん授業の出席が厳しくなったということもあって、一斉にグラウンドへ出て行くことは難しくなったので、「衣替え」という昔からの習慣はなくなったんですね。
―試合以外の思い出はありますか。
明大の故島岡吉郎監督に「泊りに来なさいよ」と言われて、当時は京王線明大前にあった明大グラウンド近くの合宿所に泊めていただいたんですよ。最上級生が便所掃除をするのと合宿所の掃除が行き届いているのが印象的でした。帰りは前年に大洋ホエールズに明治から入団した秋山(秋山登)・土井(土井淳)のバッテリーら5人がプレゼントした日産ヒルマンで本郷まで送ってもらいました。運転手は当時のマネージャー小林正三郎氏(現・六大学野球連盟評議員)だったという縁がありました。それで去年長野県の飯田で六大学のオールスターがあった時に、私は御大の館という温泉に一泊して、念願の墓参を果たしました。墓碑を見て、御大が土地の名家出身であることを知りました。
―練習にも参加されましたか。
部員数が少なかったのでマネージャーもバッティング・キャッチャーなどを手伝いました。思い出に残るのは、下級生が、打撃練習で頭部にデッドボールを受けたんです。当時はまだヘルメットがない時代で。暫く休んでからまた元気に練習に加わって、寮で賑やかに夕食も食べたんですが、その晩に急に意識がなくなってしまったんです。それで東大病院に緊急入院して、私はベッドの下で一夜を明かしました。外は大嵐で、うめき声を聞く度に「生きていてくれ」と祈りました。しかもその選手は練習を見に来た時に私が入れよ、と勧誘した人だった。だから自分に責任があるなということを思った。そのご本人は無事回復して、商社に勤務して活躍しましたよ。
―キャンプはありましたか。
冬は静岡のお寺に泊まり草薙球場でキャンプしていました。新チームになった昭和30年暮れから正月にかけて長崎でキャンプを張りました。当時長崎市助役だったに鈴田正武さん(昭和5年卒・旧五高)に大変お世話になりました。大牟田、福岡、大分を訪問しましたが、野球はオフシーズンで試合相手も野球部先輩が特別に手配してくれた社会人強豪であったため、一方的な結果に終わりましたが、当時東京からの九州遠征は珍しいこともあって、全ての訪問先に先輩が手を回して手厚いもてなしを受けました。福岡では井波義二先輩(昭和24年卒・旧富山高)が日本興業銀行の若手社員で勤務されていて、西日本鉄道社長主催の歓迎夕食会を催していただいたときの水炊きの味が忘れられません。
―マネージャーも練習に参加していたという話がありましたが。
最上級生の時に運動会の主催で駒場から本郷までマラソン大会があったんです。野球部も足に自信のあるのが出て、私も悪くないタイムで完走しました。渋谷や飯田橋の大きな交差点があるところでは警察官が優先的に通してくれるという、時がまだ緩やかに流れている時代でありました。
―学生時代を振り返ってみて、思うことはありますか。
今から思うと、運動部の非常に良いところはね、文系と理系の学生が一緒になれる。寮を持っている野球部の現役部員は、そのメリットを活かして欲しいです。
当時の一誠寮は戦前からの建物で、主将とチーフマネージャーだけは個室、あとは2人部屋または大部屋でした。1階の隅が日当たりの全くない地獄と呼ばれた大部屋、2階の少し日当たりの良い部屋が天国と名付けられていました。3年生の時に先輩の寄付で白黒テレビ1台が食堂に入り、野球ナイターの時は大勢が集まりましたね。
―マネージャーならではの、リーグ戦の思い出を教えてください。
他校のマネージャーとは、同級でも「さん」付けで呼んでいたし、神宮球場の連盟事務所もどこか張り詰めた雰囲気がありました。早慶戦の前夜に当番校マネージャーは当時信濃町の駅舎に隣接していた学生野球会館に泊まり、神宮球場で徹夜している学生の見回りに行きました。麻雀をしている学生もいましたよ。
―就職を決めた時のことについてお聞かせください。
当時はマネージャーが毎週都内の先輩に六大学の入場券を届けていました。先輩に会いに行くのに会社を訪問するので、選手と違って会社の雰囲気というのがある程度判っていたんです。私は海外に行きたかったので先輩のいる商社を志望して、9月のリーグ戦中に一度幹部面接しただけで入社が内定しました。取得単位が少なかったので、卒業は大丈夫かと念を押されましたよ。マネージャーの役得で他大学のOBからも招待状、推薦状をいただき、就活はしませんでした。
―勤めている間に野球部で得た経験が役立ったことは。
1965年に豪州三井物産メルボルンに赴任し、当時1年間は家族帯同が認められなかったため、週末は地元の野球チームでプレーしました。この頃オーストラリアの野球はまだ発展途上のレベルだったので、日本から出張して来られた日本鉱業日立の鈴木幸治氏(立大OB)に社会人チームの派遣を相談したところ、故山本英一郎氏(慶大OB)の英断で1968年に故本田弘敏・日本社会人野球連盟会長を団長とする都市対抗優勝チーム富士製鉄広畑の歴史的訪豪が実現しました。これが大成功に終わり、その後日本と豪州との野球交流が始まったんです。翌1969年には故林和男氏(早大OB)率いる西東京リトルリーグがメルボルンに来ましたね。
2度目のメルボルン勤務時の1990年に住友金属河合貞男団長(慶大OB)のチームがメルボルンに、1991年に故牧野直隆高野連会長(慶大OB)以下の大阪府高校選抜チームがメルボルンに、慶大野球部の故前田祐吉監督、綿田博人助監督(現・先輩理事)、大久保秀昭主将(現・監督)一行をブリスベンに迎えるなど、海外勤務中も東京六大学とは数多くの縁に恵まれました。さっきの質問の、野球が役に立ったかということは、仕事の上では役に立ったかは別だけれど、個人的にはまた野球のつながりがそこでできたという意味で役に立ったということだね。
―東大野球部の先輩理事も務められました。
野球は学生時代で十分と思っていましたが、先輩理事をやるようにという話をもらって図らずも先輩理事に就任し、再び人生が一変しました。
―日本学生野球協会常任理事も務められ、野球に関わり続けていらっしゃいます。
そうですね。学生の方の代表ということで、全日本野球協会の専務理事をやって、それをやっている時にジュネーブにある今の世界野球ソフトボール連盟、(旧・国際野球連盟)の第一副会長をやりました。今はアジア野球連盟シニアアドバイザーと、全日本野球協会のシニアアドバイザーとして、英語のホームページ作成をこの数年お手伝いしているんですよ。例えば高校野球の投げ過ぎ問題なんかの記事であれば、野球界で今何が起きているというのが非常によくわかるし頭の体操になるんです。速報というよりも、あとになって記録や歴史に残ることを目指しています。アジア野球連盟のホームページでは、香港、マレーシア、フィリピン、韓国、パキスタン、インドなどの国の記事からピックアップしたものを、台湾の事務局がアップしています。
―田和さんにとって、東大野球部はどのようなものですか。
なんとなく勝手に一体感を覚えていますね。
戦前、戦争直後の野球部OBの多くが亡くなられました。当時の先輩は殆どお会いしたことがありますが、大正15年卒の先輩で故小笠原道生氏(旧六高)とだけは面識がありません。同氏(和歌山中学)は第1回全国中等学校優勝野球大会(現・甲子園大会)に出場し、医学部卒ながら旧文部省の体育局長まで務め、悪名高い野球統制令を推進したとされていますが、高官でありながらパージ(公職追放)に掛かっていないし、野球とは無関係に同氏を囲むグループが戦後も続いていたなど、私にとって学生時代から謎が多い存在で、調べてみたいと思っています。歴史を一面的にみてはいけないという例かもしれません。
―マネージャーにひとこと。
「名マネージャーの下に勝利あり」(故好村三郎氏・立大OB・朝日新聞より)。名マネージャーになれなくても、その努力の過程が大切だと思います。
田和 一浩(たわ かずひろ)プロフィール
○卒業後の主な野球関係役職
東京六大学野球連盟先輩理事、日本学生野球協会理事、全日本アマチュア野球連盟(現・全日本野球協会BFJ)専務理事、国際野球連盟(現・世界野球ソフトボール連盟)第一副会長、アジア野球連盟(BFA)シニアアドバイザー、運動器の健康・日本協会、業務執行理事。