100周年連載企画第9回

100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜


【第9回】 須貝 謙司 2000(平成12年)年卒 内野手 湘南高

まず初めに、高校時代の生活について教えてください。


野球ばっかりの生活でしたね。
当時の湘南高校は校舎改築工事でグラウンドが使えなくて、近隣の空き地を借りたりして練習していました。
校内にはティーバッティングや筋トレをするスペースくらいしかなかったんですが、毎朝監督の指示なしに自主的にみんなで集まって練習をしていました。グラウンドがないのに、夏神奈川県ベスト4まで行けたのは、そういった努力の成果だったと思います。
僕個人としては鎌倉の家から学校まで、片道7㎞を毎日走って通学したりしていました。
受験勉強は正直、秋の体育祭が終わるまでしていませんでした。

―東大を目指し始めたのはいつからですか。


東大を意識したのは夏の大会が終わってからです。
スター選手がいないのに、ベスト4まで進めたのがすごく面白くて。
湘南と同じような条件で野球をできるのが東大しかないと思いました。

浪人時代はどのような生活をされていたのですか。

浪人時代はボールを一回も握っていないんじゃないかな。
予備校は御茶ノ水まで通っていました。
横浜の予備校に通うと友達がたくさんいて勉強できないと思ったからね。笑

浪人時は順調でしたか。

振り返ってみると順調に過ごしたのかな…って感じはするけど当時はもう必死で…。笑
最初は予備校の教科書が何にも分からないレベルだったので、野球は忘れてひたすら勉強しましたね。

リーグ戦デビューについて教えてください。

1年秋の開幕法政戦、2番サードで先発しました。
開幕2戦目で運よくタイムリーを打てましたが、そのあとヒットが出ず、17打数1安打でそのシーズンを終えました。
六大学のレベルを思い知ったシーズンになりましたね。

―2年生からは順調に試合出場を重ねたのですか。

監督が変わった2年春は調子を落とし、5打席しか出場できませんでした。
何か変わらなければまずいと思い、そのあたりから真剣に考えるようになりました。
と言うのも、六大学で野球をやるために東大に入学したのに、このままだらっと4年間終わってしまったら、浪人中の自分に申し訳ないとふと思ったんですよね。その頃から六大学でちゃんと結果を残したいという思いが強くなり、自分のプレースタイルについて考えるようになりました。

―具体的にはどのようなことを意識したのですか。

それまでバッティング練習では、とにかく遠くに飛ばして首脳陣にアピールすることばかり考えていましたが、意識改革後は例えばマシンでカーブを打つ時に、わざとストレートを待っていてタイミングを外された形をあえて作って打つようにするなど、とにかく実戦を想定して練習するようになりました。
それからミートポイントを近づけるために、バットをこぶし一つ分短く持つようにしたんですよね。これが身体を開かずに打つという結果につながり、2年秋ではまたレギュラーに定着し(レフトでしたが)、打率2割超という成績につながりました。

―そのシーズンが、六大学で結果を残せるという手ごたえを感じたシーズンだったのですね。

そうですね。振り返ればやはり、2年春から秋にかけての時間が僕にとってのターニングポイントで、試合に出られないむなしさを味わい、チームの勝利に貢献できないということが恐怖として頭をよぎるようになったんですよね。それがきっかけで練習への取り組みが変わり、そして迎えた2年秋のリーグ戦で、自分のプレースタイルの方向性を見つけることができたと思います。
そこから3年春開幕までの時間は、更に自分のプレースタイルを追求することに費やしました。自分と体格や目指すプレースタイルが似ている他大の選手や、結果を継続的に出している選手などの映像を繰り返し見て、打席での自分に合った待ち方、打ち方を研究しました。

―具体的な選手はどなたですか。

高校の先輩だった後藤健雄さん(慶大・平成10年卒)や、法政の三島裕さん(法大・平成10年卒)、東大の丸山剛志さん(平成10年卒・宮崎大宮高)、濱田睦将さん(平成10年卒・竜ケ崎一高)などの打ち方を参考にしました。

―それが3年春のベストナインという結果につながったのですね。

そのシーズンは最後まで手探りでしたけどね。前のシーズンから比べると少しバットを長く持つように変えて、それでも差し込まれないような打ち方を工夫しました。相手投手の配球を研究したりもしましたね。ストライクが欲しいカウントで何を投げているかとか。リーグ戦中はひたすら打席のことを考えていましたね。いわゆるイメージトレーニングばかりしていました。おかげで目標の一つだったホームランも打つことが出来ました。

―やはり当時は自分の中での達成感はあったのですか。

今振り返ってみれば、僕がベストナインなんて信じられないなぁと思うこともあるけど、当時は打率.351は打つべくして打ったと思っていたと思います。ベストナインまでは考えていませんでしたけど。笑

―3年秋、4年春も続けて3割越えという結果を残されました。

3年春に自分なりの方法を編み出して、完成させたので、その後はそれをしっかりと続けることで同じような成績(3年秋.308, 4年春.333)を残すことができました。4年の秋は成績を残せなかったですけど…。

―4年間を振り返って印象に残っているシーズンはありますか。

自分個人としては2秋~3春にかけて成長できたことが一番ですね。
チームとしては3年秋の早稲田に勝ち点を取ったことが最も印象に残っています。
自分たちが主力として勝ち点を獲ることができ、達成感がありました。

―印象に残っている対戦相手・ライバルと言える存在は。

ライバルなんておこがましいことは言えませんが、意識していた同期は早稲田の藤井秀悟、明治の木塚敦士ですかね。

―この人は全然打てなかったという相手はいますか。

立教の多田野数人くん(平成15年卒)は全く打てなかったです。笑
4年生の時の1年生だからデータがなかったのもありますけど…。
あとは、同期の遠藤良平(筑波大附高)と戦ってみたかった気持ちはありますね。

―学業に話題を移します。学部はどこに進学されたのですか。

工学部応用化学科に進学しました。
同期4人で同じ学部で、野球部の先輩もいたから行きやすかったというのが一番の理由です。

―卒業後の進路はどのように考えていましたか。

元々、野球をどこかで続けたいと漠然と考えていた一方で、自分のポテンシャルの限界もうすうす感じていました。野球をやめてもいいと思える何かを見つけられたらいいなという気持ちで進路を探していました。
当時部長であった河野通方先生と話した時にパイロット採用のことを聞いて、選択肢として考えるようになりました。空を飛ぶことを仕事にするって想像した時に、野球をしている時に近い『わくわく感』を感じたんですよ。
ところが当時のOB名簿を引っ張り出してみたところ、パイロットをしているOBは野球部で誰もいなかったんですよね。なので、どんな人がパイロットとして向いているか分からないまま、素のままで受けたって感じですね。
運よくパイロットに受かってからも野球を辞めるべきかひとしきり悩んで、悩んだ末によしやってみるか、という感じで就職を決めました。

―パイロットとして現役時代の経験が生きていますか。

すごく生きてます。大学時代は、神宮の『観客』にベストのパフォーマンスを見せるということを目標に練習や心の準備をしていましたが、今はそれが『乗客』に代わっているって感じです。背負うものの重さは勿論だいぶ違いますけど、自分なりに十分な準備をした上でベストなパフォーマンスを出すという点では選手時代と同じです。同じ意識で、同じことをやっていると思っています。もっと言えば、東大受験、六大学野球、仕事、全部必要なプロセスは同じだと思っています。
まずは正確な自己分析をすること、次に自分が求める理想像を設定すること、そして最後に今の自分とその理想像の差を把握しその二つをつなぐ道をつくることです。どんなに長い道のりになったとしても、理想像に近づく努力をし続けることです。どの分野においてもこのプロセスは変わりません。僕は受験と野球を通じてこのプロセスを学び、それは今にも生きています。

―現役へ向けて一言

東大野球部に在籍できる3年半という時間はとても短いです。これを意識して毎日頑張ってください。

須貝 謙司(すがい けんじ)プロフィール

○経歴

1976(昭和51)年 神奈川県鎌倉市生まれ

1996(平成8)年 東京大学理科Ⅰ類入学

1998(平成10)年 工学部応用化学科に進学

2000(平成12)年 日本航空に入社

2004(平成16)年 ボーイング767型機副操縦士に就任

2019(平成31)年 ボーイング767型機機長に就任

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