〜東京六大学野球連盟結成100周年への思い〜

東京六大学野球連盟結成100周年を記念し、春・秋のリーグ戦で各校5名、総勢30名のレジェンドの皆様が始球式をしてくださいます。
レジェンド始球式をしてくださる東大野球部OBの方々にインタビューを行いました。
第2回は5/4(日)慶應義塾大学戦にて始球式をしてくださる平野裕一さんです。
【第2回】 平野 裕一 1978(昭和53)年卒 外野手 戸山高
―東大に入学するまでの経緯を教えてください。
高校の体育の授業で、だんだん走るスピードを上げながらトラックを走るという授業があって、走り終わった後に心拍数を測ったんです。スピードを上げると心拍数が上がっていく様子が面白くて、そのような分野に興味を持ち始めました。先生にそのような分野が勉強できる大学はどこかと聞いたら東大を紹介されて、受けてみようと思いました。また、戸山高校野球部の先輩が東大野球部にいて、それも受けようと思った1つの要因です。
―野球部在籍中の印象に残っている思い出はありますか。
寮生活ですね。それまで寮生活をしたことはなかったので、楽しかったし印象に残っています。当時は3年生まで2人部屋で、4年生になってから個室だったと思います。昔は個室が9室しかなくて、4年生になってレギュラーになれるような人達だけが個室に入れる仕組みでした。
―4年間で印象に残っている試合はありますか。
いくつかあるのですが、3年秋の立教戦で、1点ビハインドの展開で自分がスリーベースヒットを打って同点になり、その後逆転した試合は印象に残っています。あとは、3年春の明治戦で自分はセンターを守っていたのですが、普通に来たフライを落球しちゃったんです。たしかその試合は負けたんじゃないかな…。それも印象に残っていますね。
―同期には西山明彦先輩理事がいらっしゃいますが、西山さんとのエピソードはありますか。
西山とのエピソードは数知れないほどあります(笑)。西山は誰からも愛されるキャラで、我々が思いもしないような行動をするんです。リーグ戦で西山がマウンドに立っているとき、ダンスのような動きをし始めて。後で聞いてみたら、応援部がキャンディーズの曲を演奏しているのに合わせて踊っていたというんです。そんなこと普通しないでしょう(笑)。それ以外にもみんながびっくりするようなエピソードがいっぱいあります。
―大学院生のときに監督になられた経緯を教えてください。
自分が選手のとき、監督は会社から2年という期限付きで出向社員として就いておられたのですが、自分が引退した後それがなかなか難しくなったんです。私の野球の師匠である渡辺融さん(S28卒)が駒場で体育を指導しながら監督に就任されたのですが、若い人をサポートにつけたいという話になって。そこで、私がトレーニングや技術分析を専門に研究していたこともあってコーチに任命され、同期の萩原が助監督という形で渡辺先生を助けることになりました。その後渡辺先生が監督をご退任されて、教育学部の先輩である大沼徹さん(S49卒)が監督になったときに自分が助監督になって、その2年後、自分が監督に就任しました。
―平野さんの監督時代といえばやはり「赤門旋風」が思い起こされますが、当時のキャプテンだった大久保裕さん(現東大野球部監督)の印象はどのようなものですか。
大久保は落ち着いた堅実なプレーをする選手でしたね。あの代は下嶋や中野、石井といった個性的なメンバーが多くて、それをまとめ上げるのには打ってつけだということで、同期からキャプテンに選ばれたんだと思います。プレーで引っ張るような選手たちが多い中、そこをうまくまとめ上げてくれていたのが大久保でした。本当は大久保をホームランバッターにしたかったのですが、やっぱり教えていてもうまく変えられないことはあって、長打型というよりはシュアなバッターになるようにシフトチェンジしていきました。
―石井清さん(現東大野球部助監督)はどのような方だったのでしょうか。
石井は突撃型という感じで、率先して何でもやってどんどん先を行くようなタイプでしたね。途中から彼を1番バッターにしたのですが、まさにそういうタイプだったと思います。石井は元々右打者だったのですが、大沼さんが監督のときに左打ちに変えて長打が打てるように仕上げてくれていたので、そのまま継続させました。足は速いし肩も強いし、教えることはほとんどなかったです。
―監督時代に印象に残っている出来事はありますか。
すごく困ったこととして、私が仕事で練習に出られないときに限って、選手が怪我をしたり問題が起こったりしたことがあります。やっぱり選手の怪我は一番堪えました。
印象に残っている試合でいうと、監督に就任して初めての試合で、たまたま2回連続で初球ヒットエンドランをかけたのがはまって得点に結びつき、法政に勝つことができたのが印象に残っています。2回目に監督に就任したとき(1991-1996)の最初の試合も、立教にリードされている展開でキャッチャーの吉江(H4卒)にセーフティーバントをさせて、相手投手の暴投を誘って逆転することができました。最初の試合でうまくいくとチームとしても乗っていけるので、ラッキーだったなと思います。
―体育学を学ばれていたということですが、それを指導において生かした部分はありますか。
トレーニングや技術の指導の面で生かしていたと思います。もちろん選手たちは筋力トレーニングを頑張ってくれていたけれど、それだけではなかなか勝てないので、技術的なところで生かせればと思っていました。ただ、ある部分では自分のオリジナリティとして科学的な知識は活用したけれど、選手のデータをとって自分の研究に生かしたり、自分の研究を選手たちを使って確かめるというところまではなかなかできなかったですね。あとは精神的な面で、神宮の舞台に立てる選手を作るところまではできたけれど、そこで本当に活躍できる選手を作るのはなかなか難しかったです。当時活躍できた選手は元々強いメンタルを持っていた人たちで、そうでない人たちを育て上げることはなかなかできなかったです。
―監督をする上で心がけていたことはありますか。
「打ち勝つ野球」というところですね。トレーニングも技術的な指導もすべては打ち勝つためで、試合で長打を打つことを常に掲げていました。東大野球部が勝つには打ち勝つ必要があると思っていて、そこが自分のオリジナリティのような部分だと思います。
―現チームを率いる大久保監督について、どのように見ていらっしゃいますか。
すごくよくやっていると思いますよ。今のチームは特に走塁が素晴らしくて、よく考えられたプレーをしているなと思います。
―最後に、平野さんにとって東大野球部とはどのようなものですか。
自分が好きな野球というものに、自分が思うようにいろいろ取り組める場所ですね。現役の選手たちにも東大生らしく戦ってほしいなと思います。
〇経歴
1953年 東京都生まれ
1974年 東京大学理科Ⅱ類入学
1978年 東京大学大学院教育学研究科体育学専攻入学
1981年 東大野球部監督に就任(-1982)
1989年 東大野球部監督に就任(-1996) (2度目)
2019年 全日本野球協会理事、常務理事(2021-現在)
現在 法政大学名誉教授