選手からのメッセージ

 過去のメッセージ
2019年9月20日

(・年・)

100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜


【第12回】 井坂 肇 2014(平成26年)年卒 投手 日比谷高

―野球部に入部した経緯を教えてください。

小学生の頃から父に連れられて神宮球場で六大学野球を観戦していました。その時から東大で野球をするという想いはありました。そして高校野球が終わった段階で、本格的に受験勉強に力を入れて、東大合格を目指しました。

―当時のチームの雰囲気はいかがでしたか。

高校での野球部に比べて自由な雰囲気で練習しているなと感じました。学生コーチや選手が中心の運営で、独特だなと思いました。選手同士の考えで練習を行っていましたが、もう少し厳しい雰囲気で練習しても良いのではないかとは思いました。

―思い出に残っている試合を教えてください

印象に残っているのは1年の秋の初登板と最終戦です。初登板の時は緊張と興奮でいっぱいでした。ビハインドの展開でしたが、自分の球速表示に少し球場がざわついたのを覚えています。抑えることができてほっとしたことも覚えています。最終戦は、当時主将だった前田さん(平成23年卒・栄光学園高)が投げている姿がかっこよくて、自分が4年生になった時にこういう姿を見せることができるようになりたいと思いました。

―大学卒業後も野球を続けようと思ったのはいつですか

東大からプロ野球選手になるというのが自分の夢でしたので、入部した時から卒業後も野球を続けたいと思っていました。しかし思うように結果が残せずに進路で悩んでいるときに、OBの遠藤さん(平成12年卒・筑波大附高)から独立リーグの話をお聞きして、その道に進むことを決断しました。

―独立リーグと大学野球との違いは感じられましたか

一番の違いは、独立リーグは職業なので野球がやりたいから出来るというわけではなくなるということです。部活動ではよほどのことがない限り退部勧告を受けることはないと思いますが、職業野球では球団の求める人材でなければすぐクビになってしまうので、早く結果を残さなければいけないということですね。

―独立リーグ時代の目標はありましたか。
また、達成することはできましたか。

僕の目標はNPB入団でしたので、その目標は達成することはできませんでした。周りにいた、NPBに入団した選手との違いも実感しました。

―独立リーグでのやりがいを教えてください。

元NPBの選手の話や指導を直接聞いたり受けたりできることがとてもありがたいです。また、独立リーグは野球を通じた地域貢献も目標としているので、野球を通じて地域の方と触れ合いながら、地域を活性化していこうという取り組みができることは魅力の一つだと思います。


―引退後、現在の取り組みについて教えてください。

野球の指導者を目指しています。指導者としては大学野球や高校野球と種類は問いませんが、高校野球の指導者もできるように、今は教員免許取得に向けて通信制の大学に通って勉強をしています。

今後の目標を教えてください。

東大野球部の監督になって六大学で優勝することが目標です。そのために改めて、指導者の立場として野球の勉強をしています。OBとして東大野球部に貢献したいと思っています。

今の東大野球部に向けて一言お願いします。

リーグ戦では目の前の試合の1勝に集中して取り組んでほしいと思っています。神宮という大舞台でプレーできる喜びを実感しながら大切にしてほしいと思います。応援しています!

井坂 肇(いさか はじめ)プロフィール

○経歴

1990年 東京都世田谷区生まれ

2010年 東京大学理科Ⅱ類入学

2012年 農学部生物環境工学に進学

2014年 独立リーグ信濃グランセローズ入団

2016年 高知ファイティングドッグス入団

記事一覧へ

(・年・)

100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜

東大野球部卒業後、様々な分野において社会で活躍するOBの方々にお話をうかがい、記事にして紹介します。現役時代の振り返りや、野球部での経験が社会で活躍する現在どのように生きているのかなどについてたっぷりとお話ししていただきました。
隔週水曜更新で全12回お届けいたします。どうぞお楽しみに!

第1回
田和 一浩 氏
昭和32年卒 北園高校出身
商社に就職する傍ら、野球関係団体でも活躍
記事はこちら

第2回
清水 幹裕 氏
昭和41年卒 岡崎北高校出身
弁護士であり、六大学野球連盟で審判を務める
記事はこちら

第3回
門松 武 氏
昭和46年卒 湘南高校出身
卒業後は建設省(現国土交通省)に入省し、
ダムの建設などに関わる
記事はこちら

第4回
伊藤 仁 氏
昭和53年卒 東海高校出身
社会人野球を経験し、
東大野球部の監督も務める
記事はこちら

第5回
丹下 健 氏
昭和56年卒 県立千葉高校出身
東大野球部部長、東京大学農学部部長を歴任。
現在は東京大学農学部で教授を務める。
記事はこちら

第6回
大越 健介 氏
昭和60年卒 新潟高校出身
卒業後はNHKに入社し、記者、のちにキャスターとして活躍
記事はこちら

第7回
階 猛 氏
平成3年卒 盛岡一高校出身
卒業後は日本長期信用銀行(現新生銀行)に入行し、現在は衆議院議員として活躍
記事はこちら

第8回
石田 和之 氏
平成7年卒 菊里高校出身
卒部後、東大野球部の助監督を務め、
現在はジャイアンツアカデミーのコーチを務める
記事はこちら

第9回
須貝 謙司 氏
平成12年卒 湘南高校出身
現役時代は遊撃手としてベストナインを獲得。卒業後はパイロットとして世界を飛び回る。
記事はこちら

第10回
松家 卓弘 氏
平成17年卒 高松高校出身
2004年ドラフト9位で横浜ベイスターズに入団。日本ハムファイターズへの移籍を経て、退団後は高校野球の指導に携わる。
記事はこちら

第11回
重信 拓哉 氏
平成20年卒 鶴丸高校出身
卒部後は明治安田生命に入り投手として活躍。現在はコーチを務める。
記事はこちら

第12回
井坂 肇 氏
平成26年卒 日比谷高校出身
卒部後は独立リーグで活躍し、
現在は高校野球の指導者を目指す。
記事はこちら

2019年9月9日

(・年・)

100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜


【第11回】 重信 拓哉 2008(平成20年)年卒 投手 鶴丸高

―野球部に入部した経緯を教えてください。

東大野球部に入ろうと思い、東大を目指しました。その決断自体はそれほど早い時期に出てきたものではありませんでした。高校時代はなんとなく大学でも続けたいとは思っていましたが、どこでやるかは全然決めていなかったですし、大学で続けるかどうかも100%ではなかったです。最後の夏の大会では、シードもされていて県内ではそこそこ勝てる自信はありましたが、1回戦で逆転サヨナラ負けを喫したことで、自分の中でこれでは終われないと思いました。引退する時、保護者や指導者の方もいる前で一人ひとりしゃべる機会があり、東大で野球やります、と言い切りました。その瞬間に決めたという感じでしたね。言ったからにはやらなければという状況で、そのきっかけとなったのが当時外部コーチをしていた明治大学の野球部のOBの方で、その方から六大学の話は聞いていました。自分が六大学で試合に出るのなら東大しかないのかなとは思っていました。その気持ちが、最後のサヨナラ負けとか野球をここで終われないという気持ちと重なって、その時自分の中で決まりました。

―当時のチームの雰囲気はいかがでしたか。

入学したときの4年生がすごかったです。投手で松家さん(平成17年卒・高松高)、野手でもベストナインをとった杉岡さん(平成17年卒・木更津高)や太田さん(平成17年卒・県長野高)がいて、レベルの高さに驚きました。東大のことも、六大学のこともあまり知らなかったし鹿児島なので神宮で試合を観たこともなかったです。当時はインターネットも身近でなかったので。最初は正直舐めていて自分が行けばなんとかなるだろうと思っていましたが、いざ入ってみたらチームの中でも自分の実力不足を実感しました。その年、チームは年間で5勝しました。投手は松家さんと3年の木村さん(平成18年卒・川越東高)が中心で強かったですが、次の年は年間2勝で、前の年ほどは勝てませんでした。監督が4年間で3人代わって、チームのちょうど過渡期みたいな感じでしたね。今考えてみると、チームとしてどっしりとした体制のようなものがなかったのかもしれません。雰囲気として別に悪かったわけではなかったのですが、うまく戦えてなかったのかもしれないと思いました。自分が4年の時は、現在助監督の中西さん(現助監督・平成10年卒・東海大仰星高)が監督でした。

野球部に在籍していたときの思い出を教えてください。

4年の秋の最後のカードでようやく勝てたことですね。勝てたというのはやはり一番印象に残っていて、そのときには48連敗していました。東大の人はそういう時代を経験すると思いますが、勝てない時代になってしまって勝ち方がわからないという状況になってしまっていました。それを最後に止められたというのはすごくよかったと言ってもらえることもありますが、自分の中では勝てたということよりも連敗を作ってしまったこと、連敗中にどうにもできなかったことへの気持ちの方が強かったですね。
自分はリーグ戦自体で投げるのは早くて、1年の春からでした。登板機会も多くもらっていたのに勝てなかったです。とくに大きな怪我もなく、8シーズン投げてないシーズンはなかったです。3年春から先発を務めました。プロに行きたいという気持ちが強く、勝負のシーズンだと臨んだ4年の春は調子が悪くてあまり投げられなかったです。4年の秋にある程度調子がよくなり、社会人でできることが決まりました。最後のカードで勝つことができました。

学業との両立は厳しかったでしょうか。

自分の時は文科Ⅱ類から経済学部への進学は単位さえとっていれば行ける、という感じでした。それもあって、文科Ⅱ類を受けました。やはり高校までの勉強とは違うことも多くて、真っ向からいっても単位を落としたこともあり、限界を感じることがありました。東大のレベルの高さを感じましたね。
野球を続けるためにも卒業できないといけないので、何とか単位だけは落とさないようにと思って頑張っていました。それでも何度か単位を落とし、結構苦労はしましたね。野球部の同級生や、クラスの友達にもすごく助けてもらいました。
遊ぶ時間などは少なかったですが、とにかく野球ができればよかったので、それは気になりませんでした。練習やトレーニングに時間を費やすことが多かったですね。単位はとれましたが、その時は単位を取ることに必死で、せっかく東京大学に入ったのだからもっと視野を広げて勉強すればよかったかな、と今では思います。在学中はあまり感じませんでしたが、卒業してからふと自分が東大にいたことを思い出す瞬間があるので、もっといろいろなことに興味を持って学べばよかったですね。
4年間の経験は、成功体験の方が少ないし負けてばかりでしたが、その中で野球が好きだったから何とかもがいて頑張り続けられました。逆境に対してねばり強くなることができましたね。

卒部後は社会人野球に進まれました。

卒業後も野球は続けたいと思っていましたが、大学でやっている間はプロしか見えてなくて社会人野球のことは知らなかったです。社会人でやるという考えはもともとありませんでした。4年の春に調子が悪くて全然アピールできなかったので野球を続けられるかわかりませんでした。その時に同期の主務の小谷(平成20年卒・八鹿高)が、連盟で社会人チームに話をつないでくれました。会社の方が観に来てくれた試合である程度いいピッチングができて声をかけてもらいました。社会人でずっとやっていこうというよりは、その時もプロに行きたい気持ちが強かったので、社会人を経ていこうと思っていましたね。それを手助けして実現してくれたのは小谷の力によるところが大きいので、本当に頭が上がらないです。小谷とは現役の時にも引退してからも結構試合を観に来てくれ、今でも交流があります。

大学野球とは違う雰囲気は感じられましたか。

やはりレベルが格段に上がりました。もちろん大学野球にもプロで即戦力になるような選手もいて決してレベルが低いわけではありませんでしたが、野球の考え方が全然違うと感じました。大学では4年間かけて最後にやっと通用するようになったと思っていましたが、社会人に入ったらまたゼロからスタートするような感覚でした。大学のときにできていたようなこともできなくなったような気がしました。

学生時代の経験が役に立ったと感じた出来事はありましたか。

だめなときでも頑張るという気持ちが身につきました。社会人は極端な話だめだったら1年で終わる可能性もあります。とにかく前に進んで上に行きたいという思いで必死にやっていましたね。


―社会人野球で印象に残っていることはありますか。

現役の間に2回都市対抗に出場しました。2回目の2015年に出たときに、大事な場面で投げさせてもらえました。8年かかっているので、大学の2倍かかってしまいましたね(笑)。そこにきてようやくチームでも信頼されるようになったのだと実感しました。そこで結果を出せたことが自分のなかでは印象に残っています。翌年に引退して、そのままコーチになりました。やはり野球に携わっていきたいというのがありました。長く社会人野球をやっていく中で、社会人野球のやりがいや都市対抗がどんなものか分かってきました。野球を続けられるチャンスをいただいたのなら携わっていきたいと思いました。
今後どこまで続けるかは、社業もあるし年齢的な問題もあると思います。大学時代、卒業してからの12年間と、これまで野球しかしてきていないので、今からでも野球以外のこともやってみたいという気持ちもありますね。

今後成し遂げたいと考えていることは何かありますか。

今は模索中です。大学4年生と同じような気持ちだと思います。社会人の場合は、大学みたいに学年で終わりが決まっているわけではないですが、続けられる間は野球を頑張りたいです。ここから先どのような世界が待っているか、不安も期待もあるような状況です。

今の東大野球部の雰囲気をどのようにご覧になっていますか。

自分たちの頃と比べて環境面など、組織としての機能性が確立されてきていると思います。
現役の選手たちは今の環境で十分満足しているわけではないと思いますが、今この環境ができているのはきっと浜田監督になってからだと思います。7年監督をされているというのもすごいし、この7年の中で外から見ても東大野球部がすごく変わったと感じます。今の雰囲気はチームとしてよくなっていると思いますね。
チームはただ野球がうまければ勝てるというわけではないです。ひとりすごいピッチャーがいたら勝てるのかもしれないですが、他の大学を見てもそういうチームが優勝できるわけでもないですよね。チームとしてまとまりを持って、監督、助監督を信じてやっていけば、もっと勝てる可能性が出てくると思います。

現役部員である鶴丸高校の後輩に向けてエールをお願いします。

濵﨑(4/投手/鶴丸)は下級生から投げていて、いいピッチャーが入ってきたなと思っていました。ただ、リーグ戦を見ていると最近は苦しんでいるように思いますが、ラストシーズン残っています。自分も4年の秋にやっとある程度自分の力を出せるようになったので、最後まで頑張ってほしいです。最後に力が出せると期待しています。

野手2(武隈(3/外野手/鶴丸)、櫻木(2/外野手/鶴丸))に関しては、オープン戦とかでもよく打っているのですごいと思います。鹿児島で遠いし公立高校でそんなに多く東大に入れるわけではない中で、東大で野球がやりたくて来ている。本人たちも地元に帰ると応援してくれる人が多いと感じると思います。自分が思っている以上に応援してくれている人、結果を気にしてくれている人が多いということを感じてもらいたいですね。

チーム全体に向けて、人生の先輩としてメッセージをお願いします。

社会人で野球をやっていて、他大学出身の選手としゃべる機会も多いです。どこも東大相手が一番いやなのだなと思います。負けられないという思いがすごく強いですね。だからと言って自分たちがそれを意識して変わる必要はないと思いますが、僅差で競った試合になったときにこそ力を発揮できるように頑張ってほしいです。この試合は行けるという時は、相手は東大の数倍焦っていて、どこのチームも東大以上にプレッシャーがあります。たまに転がってきたチャンスを確実に生かせるようになると、勝てる試合も増えてくるのかなと思います。ただ、そういう時こそ普段の練習を思い出してやってほしいです。東大生はすごく頑張るので、練習でここまでやり切る力は他大学にはないと思います。試合が練習ぐらいのつもりで行った方が力を出せると思います。普段の練習で十分頑張っているので、普段通りを試合でも出せれば勝ちにつながると思います。

重信 拓哉(しげのぶ たくや)プロフィール

○経歴

2004年 文科Ⅱ類に入学

2006年 経済学部に進学

2008年 東京大学卒業、明治安田生命に入社

20082016年 選手として活躍

2017年~ 明治安田生命野球部コーチを務める

記事一覧へ

2019年9月4日

(・年・)

100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜


【第10回】 松家 卓弘 2005(平成17年)年卒 投手 高松高

高校時代について教えてください。


中学校の軟式野球部の県大会優勝したメンバーの5人が同じ高松高校に入学したので、甲子園に行くための野球が中心の生活をしていました。高校2年生の秋季県大会は準優勝し、四国大会はベスト4でしたが、春の甲子園には出られませんでした。また3年生の春季県大会も準優勝しましたが、夏は3回戦敗退で甲子園には届きませんでした。高校野球が終わって、次は六大学で野球がしたいと思い東大受験を決意してからは勉強だけの生活を送っていました。

―東大に入学された経緯について教えてください。


もともと高校卒業後は六大学で野球がしたいと思っていました。三角監督が高校2年のときに試合を見に来てくれていたこともあって、東大も六大学の中の選択肢ではありました。高校の先輩でもある細川さん(平成16年卒・高松高)に東大野球部の話を聞いたり、高3の夏休みに東大の練習を見学させていただいたりしました。しかし当時は学力が全然足りなくて、慶應に指定校推薦で進学しようと思っていました。ですが、当時の副担任から東大に向けて勉強することを薦められたこともあって東大を受験しようと決意しました。

入部当初の野球部の印象はどのようなものでしたか。

リーグ戦でなかなか勝てない状況でしたが、先輩方が夜遅くまで野球のことについて真剣に話したり、時には熱くぶつかったり、苦しんでいる姿を見て、野球に対する真摯な姿勢と六大学で勝つことの難しさを感じました。またすぐに入寮させていただいたのですが、ほぼ学生だけで寮と野球部が運営されていることに驚きました。

リーグ戦デビューについて教えてください。

2年生の春のリーグ戦の慶大との1回戦でした。春のオープン戦もあまり順調に登板できていなかったのもあって、ゲームを作れるのかが心配でした。案の定、四球からの自滅でたくさん点を取られてしまいました。苦い記憶です。その一方で自分の球をしっかり投げることができれば、ある程度抑えられるのではないかという手応えも感じられた試合でした。

4年間で印象に残っているシーズンや試合はありますか。

4年生の春季リーグ戦の対早大2回戦です。早大に3対2で勝った試合でしたが、7回途中勝っている状況から、リリーフとして登板しました。自分が東大に入って初めてチームの勝ちに貢献できた試合でした。
3年生の時、私は右肩痛で苦しんでいました。学生コーチの川上さん(平成16年卒・栄光学園高)には毎日寮でストレッチしてもらったり、キャプテンの河原さん(平成16年卒・私立武蔵高)にもリハビリに付き合っていただきましたが、結局登板できず、1つ上の先輩方に受けた恩を返せなかったという思いがありました。そのことから、4年生の1年間はチームの勝利に貢献したいと強く思って臨んだシーズンでした。

―プロを意識し始めたのはいつ頃からでしたか。

高校3年生の大学に進学すると決めた時です。大学4年間、野球に打ち込んで必ずプロ野球選手になってやろうと思っていました。

―ドラフトで指名されたときのことについて教えてください。

達成感や安堵感よりも、「これからプロの世界に入るんだ」という覚悟に似た感覚を抱きました。数日経って、大学で実績がないのにプロで通用するのだろうかという不安を強く感じました。

―プロ入り後について教えてください。

プロ野球生活8年間のうち、最初の3年間は右肩痛との闘いでした。肩のコンディショニングが安定しなくて、毎日肩を気づかう生活でした。次第に投げる体力もつき、野球する理解も少しずつ深まってきて、思うようなピッチングができ始めたのが4~5年目でした。5年目終了後に横浜から日本ハムにトレードとなりました。日本ハムでは、当初横浜の4~5年目と同じような球が投げられていたので強い手応えを感じていましたが、指の怪我から肘の故障を招き、最後はフォームや投球感覚も崩してしまいました。

―高校野球の指導者に転身されてからについて教えてください

高校教員になったのは野球の指導者になりたいというよりは、地元に貢献したいという思いからです。好きな野球を好きなだけさせてもらって、自分の限界も知ることができたプロ野球生活の8年間を終えて、「自分のことはもういいや」という不思議な気持ちになりました。そして人の役に立ちたいと純粋に思いました。今は高校教員として、人の成長に携われる毎日をとても楽しく過ごしています。

―現役の投手陣に向けてアドバイスをお願いします。

状況がどんなに悪くても、自分に何ができるのか、自分は何をしようとすべきなのかを明確にして、チームのために最善を尽くしてください。

―最後に現役部員に向けてメッセージをお願いします。

長いようで短い4年間を神宮での勝利のために、必死に過ごすことは人生の財産になると思っています。どれだけ必死になれるかが大切だと思います。うまくいかないことのほうが多いとは思いますが、頑張ってください。秋のリーグ戦のまずは1勝を期待しております。

松家 卓弘(まつか たかひろ)プロフィール

○経歴

1982年 香川県生まれ

2004年 プロ野球ドラフト会議にて横浜ベイスターズから9巡目で指名を受ける

2009年 北海道日本ハムファイターズへ移籍

2015年 香川県内の高校にて教諭として勤務

記事一覧へ