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2019年9月20日

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100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜


【第12回】 井坂 肇 2014(平成26年)年卒 投手 日比谷高

―野球部に入部した経緯を教えてください。

小学生の頃から父に連れられて神宮球場で六大学野球を観戦していました。その時から東大で野球をするという想いはありました。そして高校野球が終わった段階で、本格的に受験勉強に力を入れて、東大合格を目指しました。

―当時のチームの雰囲気はいかがでしたか。

高校での野球部に比べて自由な雰囲気で練習しているなと感じました。学生コーチや選手が中心の運営で、独特だなと思いました。選手同士の考えで練習を行っていましたが、もう少し厳しい雰囲気で練習しても良いのではないかとは思いました。

―思い出に残っている試合を教えてください

印象に残っているのは1年の秋の初登板と最終戦です。初登板の時は緊張と興奮でいっぱいでした。ビハインドの展開でしたが、自分の球速表示に少し球場がざわついたのを覚えています。抑えることができてほっとしたことも覚えています。最終戦は、当時主将だった前田さん(平成23年卒・栄光学園高)が投げている姿がかっこよくて、自分が4年生になった時にこういう姿を見せることができるようになりたいと思いました。

―大学卒業後も野球を続けようと思ったのはいつですか

東大からプロ野球選手になるというのが自分の夢でしたので、入部した時から卒業後も野球を続けたいと思っていました。しかし思うように結果が残せずに進路で悩んでいるときに、OBの遠藤さん(平成12年卒・筑波大附高)から独立リーグの話をお聞きして、その道に進むことを決断しました。

―独立リーグと大学野球との違いは感じられましたか

一番の違いは、独立リーグは職業なので野球がやりたいから出来るというわけではなくなるということです。部活動ではよほどのことがない限り退部勧告を受けることはないと思いますが、職業野球では球団の求める人材でなければすぐクビになってしまうので、早く結果を残さなければいけないということですね。

―独立リーグ時代の目標はありましたか。
また、達成することはできましたか。

僕の目標はNPB入団でしたので、その目標は達成することはできませんでした。周りにいた、NPBに入団した選手との違いも実感しました。

―独立リーグでのやりがいを教えてください。

元NPBの選手の話や指導を直接聞いたり受けたりできることがとてもありがたいです。また、独立リーグは野球を通じた地域貢献も目標としているので、野球を通じて地域の方と触れ合いながら、地域を活性化していこうという取り組みができることは魅力の一つだと思います。


―引退後、現在の取り組みについて教えてください。

野球の指導者を目指しています。指導者としては大学野球や高校野球と種類は問いませんが、高校野球の指導者もできるように、今は教員免許取得に向けて通信制の大学に通って勉強をしています。

今後の目標を教えてください。

東大野球部の監督になって六大学で優勝することが目標です。そのために改めて、指導者の立場として野球の勉強をしています。OBとして東大野球部に貢献したいと思っています。

今の東大野球部に向けて一言お願いします。

リーグ戦では目の前の試合の1勝に集中して取り組んでほしいと思っています。神宮という大舞台でプレーできる喜びを実感しながら大切にしてほしいと思います。応援しています!

井坂 肇(いさか はじめ)プロフィール

○経歴

1990年 東京都世田谷区生まれ

2010年 東京大学理科Ⅱ類入学

2012年 農学部生物環境工学に進学

2014年 独立リーグ信濃グランセローズ入団

2016年 高知ファイティングドッグス入団

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100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜

東大野球部卒業後、様々な分野において社会で活躍するOBの方々にお話をうかがい、記事にして紹介します。現役時代の振り返りや、野球部での経験が社会で活躍する現在どのように生きているのかなどについてたっぷりとお話ししていただきました。
隔週水曜更新で全12回お届けいたします。どうぞお楽しみに!

田和 一浩 氏
昭和32年卒 北園高校出身
商社に就職する傍ら、野球関係団体でも活躍
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清水 幹裕 氏
昭和41年卒 岡崎北高校出身
弁護士であり、六大学野球連盟で審判を務める
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門松 武 氏
昭和46年卒 湘南高校出身
卒業後は建設省(現国土交通省)に入省し、
ダムの建設などに関わる
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伊藤 仁 氏
昭和53年卒 東海高校出身
社会人野球を経験し、
東大野球部の監督も務める
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丹下 健 氏
昭和56年卒 県立千葉高校出身
東大野球部部長、東京大学農学部部長を歴任。
現在は東京大学農学部で教授を務める。
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大越 健介 氏
昭和60年卒 新潟高校出身
卒業後はNHKに入社し、記者、のちにキャスターとして活躍
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階 猛 氏
 平成3年卒 盛岡一高校出身
卒業後は日本長期信用銀行(現新生銀行)に入行し、現在は衆議院議員として活躍
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石田 和之 氏
 平成7年卒 菊里高校出身
卒部後、東大野球部の助監督を務め、
現在はジャイアンツアカデミーのコーチを務める
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須貝 謙司 氏
平成12年卒 湘南高校出身
現役時代は遊撃手としてベストナインを獲得。卒業後はパイロットとして世界を飛び回る。
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松家 卓弘 氏
平成17年卒 高松高校出身
2004年ドラフト9位で横浜ベイスターズに入団。日本ハムファイターズへの移籍を経て、退団後は高校野球の指導に携わる。
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重信 拓哉 氏
平成20年卒 鶴丸高校出身
卒部後は明治安田生命に入り投手として活躍。現在はコーチを務める。
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井坂 肇 氏
平成26年卒 日比谷高校出身
卒部後は独立リーグで活躍し、
現在は高校野球の指導者を目指す。
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2019年9月9日

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100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜


【第11回】 重信 拓哉 2008(平成20年)年卒 投手 鶴丸高

―野球部に入部した経緯を教えてください。

東大野球部に入ろうと思い、東大を目指しました。その決断自体はそれほど早い時期に出てきたものではありませんでした。高校時代はなんとなく大学でも続けたいとは思っていましたが、どこでやるかは全然決めていなかったですし、大学で続けるかどうかも100%ではなかったです。最後の夏の大会では、シードもされていて県内ではそこそこ勝てる自信はありましたが、1回戦で逆転サヨナラ負けを喫したことで、自分の中でこれでは終われないと思いました。引退する時、保護者や指導者の方もいる前で一人ひとりしゃべる機会があり、東大で野球やります、と言い切りました。その瞬間に決めたという感じでしたね。言ったからにはやらなければという状況で、そのきっかけとなったのが当時外部コーチをしていた明治大学の野球部のOBの方で、その方から六大学の話は聞いていました。自分が六大学で試合に出るのなら東大しかないのかなとは思っていました。その気持ちが、最後のサヨナラ負けとか野球をここで終われないという気持ちと重なって、その時自分の中で決まりました。

―当時のチームの雰囲気はいかがでしたか。

入学したときの4年生がすごかったです。投手で松家さん(平成17年卒・高松高)、野手でもベストナインをとった杉岡さん(平成17年卒・木更津高)や太田さん(平成17年卒・県長野高)がいて、レベルの高さに驚きました。東大のことも、六大学のこともあまり知らなかったし鹿児島なので神宮で試合を観たこともなかったです。当時はインターネットも身近でなかったので。最初は正直舐めていて自分が行けばなんとかなるだろうと思っていましたが、いざ入ってみたらチームの中でも自分の実力不足を実感しました。その年、チームは年間で5勝しました。投手は松家さんと3年の木村さん(平成18年卒・川越東高)が中心で強かったですが、次の年は年間2勝で、前の年ほどは勝てませんでした。監督が4年間で3人代わって、チームのちょうど過渡期みたいな感じでしたね。今考えてみると、チームとしてどっしりとした体制のようなものがなかったのかもしれません。雰囲気として別に悪かったわけではなかったのですが、うまく戦えてなかったのかもしれないと思いました。自分が4年の時は、現在助監督の中西さん(現助監督・平成10年卒・東海大仰星高)が監督でした。

野球部に在籍していたときの思い出を教えてください。

4年の秋の最後のカードでようやく勝てたことですね。勝てたというのはやはり一番印象に残っていて、そのときには48連敗していました。東大の人はそういう時代を経験すると思いますが、勝てない時代になってしまって勝ち方がわからないという状況になってしまっていました。それを最後に止められたというのはすごくよかったと言ってもらえることもありますが、自分の中では勝てたということよりも連敗を作ってしまったこと、連敗中にどうにもできなかったことへの気持ちの方が強かったですね。
自分はリーグ戦自体で投げるのは早くて、1年の春からでした。登板機会も多くもらっていたのに勝てなかったです。とくに大きな怪我もなく、8シーズン投げてないシーズンはなかったです。3年春から先発を務めました。プロに行きたいという気持ちが強く、勝負のシーズンだと臨んだ4年の春は調子が悪くてあまり投げられなかったです。4年の秋にある程度調子がよくなり、社会人でできることが決まりました。最後のカードで勝つことができました。

学業との両立は厳しかったでしょうか。

自分の時は文科Ⅱ類から経済学部への進学は単位さえとっていれば行ける、という感じでした。それもあって、文科Ⅱ類を受けました。やはり高校までの勉強とは違うことも多くて、真っ向からいっても単位を落としたこともあり、限界を感じることがありました。東大のレベルの高さを感じましたね。
野球を続けるためにも卒業できないといけないので、何とか単位だけは落とさないようにと思って頑張っていました。それでも何度か単位を落とし、結構苦労はしましたね。野球部の同級生や、クラスの友達にもすごく助けてもらいました。
遊ぶ時間などは少なかったですが、とにかく野球ができればよかったので、それは気になりませんでした。練習やトレーニングに時間を費やすことが多かったですね。単位はとれましたが、その時は単位を取ることに必死で、せっかく東京大学に入ったのだからもっと視野を広げて勉強すればよかったかな、と今では思います。在学中はあまり感じませんでしたが、卒業してからふと自分が東大にいたことを思い出す瞬間があるので、もっといろいろなことに興味を持って学べばよかったですね。
4年間の経験は、成功体験の方が少ないし負けてばかりでしたが、その中で野球が好きだったから何とかもがいて頑張り続けられました。逆境に対してねばり強くなることができましたね。

卒部後は社会人野球に進まれました。

卒業後も野球は続けたいと思っていましたが、大学でやっている間はプロしか見えてなくて社会人野球のことは知らなかったです。社会人でやるという考えはもともとありませんでした。4年の春に調子が悪くて全然アピールできなかったので野球を続けられるかわかりませんでした。その時に同期の主務の小谷(平成20年卒・八鹿高)が、連盟で社会人チームに話をつないでくれました。会社の方が観に来てくれた試合である程度いいピッチングができて声をかけてもらいました。社会人でずっとやっていこうというよりは、その時もプロに行きたい気持ちが強かったので、社会人を経ていこうと思っていましたね。それを手助けして実現してくれたのは小谷の力によるところが大きいので、本当に頭が上がらないです。小谷とは現役の時にも引退してからも結構試合を観に来てくれ、今でも交流があります。

大学野球とは違う雰囲気は感じられましたか。

やはりレベルが格段に上がりました。もちろん大学野球にもプロで即戦力になるような選手もいて決してレベルが低いわけではありませんでしたが、野球の考え方が全然違うと感じました。大学では4年間かけて最後にやっと通用するようになったと思っていましたが、社会人に入ったらまたゼロからスタートするような感覚でした。大学のときにできていたようなこともできなくなったような気がしました。

学生時代の経験が役に立ったと感じた出来事はありましたか。

だめなときでも頑張るという気持ちが身につきました。社会人は極端な話だめだったら1年で終わる可能性もあります。とにかく前に進んで上に行きたいという思いで必死にやっていましたね。


―社会人野球で印象に残っていることはありますか。

現役の間に2回都市対抗に出場しました。2回目の2015年に出たときに、大事な場面で投げさせてもらえました。8年かかっているので、大学の2倍かかってしまいましたね(笑)。そこにきてようやくチームでも信頼されるようになったのだと実感しました。そこで結果を出せたことが自分のなかでは印象に残っています。翌年に引退して、そのままコーチになりました。やはり野球に携わっていきたいというのがありました。長く社会人野球をやっていく中で、社会人野球のやりがいや都市対抗がどんなものか分かってきました。野球を続けられるチャンスをいただいたのなら携わっていきたいと思いました。
今後どこまで続けるかは、社業もあるし年齢的な問題もあると思います。大学時代、卒業してからの12年間と、これまで野球しかしてきていないので、今からでも野球以外のこともやってみたいという気持ちもありますね。

今後成し遂げたいと考えていることは何かありますか。

今は模索中です。大学4年生と同じような気持ちだと思います。社会人の場合は、大学みたいに学年で終わりが決まっているわけではないですが、続けられる間は野球を頑張りたいです。ここから先どのような世界が待っているか、不安も期待もあるような状況です。

今の東大野球部の雰囲気をどのようにご覧になっていますか。

自分たちの頃と比べて環境面など、組織としての機能性が確立されてきていると思います。
現役の選手たちは今の環境で十分満足しているわけではないと思いますが、今この環境ができているのはきっと浜田監督になってからだと思います。7年監督をされているというのもすごいし、この7年の中で外から見ても東大野球部がすごく変わったと感じます。今の雰囲気はチームとしてよくなっていると思いますね。
チームはただ野球がうまければ勝てるというわけではないです。ひとりすごいピッチャーがいたら勝てるのかもしれないですが、他の大学を見てもそういうチームが優勝できるわけでもないですよね。チームとしてまとまりを持って、監督、助監督を信じてやっていけば、もっと勝てる可能性が出てくると思います。

現役部員である鶴丸高校の後輩に向けてエールをお願いします。

濵﨑(4/投手/鶴丸)は下級生から投げていて、いいピッチャーが入ってきたなと思っていました。ただ、リーグ戦を見ていると最近は苦しんでいるように思いますが、ラストシーズン残っています。自分も4年の秋にやっとある程度自分の力を出せるようになったので、最後まで頑張ってほしいです。最後に力が出せると期待しています。


野手2(武隈(3/外野手/鶴丸)、櫻木(2/外野手/鶴丸))に関しては、オープン戦とかでもよく打っているのですごいと思います。鹿児島で遠いし公立高校でそんなに多く東大に入れるわけではない中で、東大で野球がやりたくて来ている。本人たちも地元に帰ると応援してくれる人が多いと感じると思います。自分が思っている以上に応援してくれている人、結果を気にしてくれている人が多いということを感じてもらいたいですね。

チーム全体に向けて、人生の先輩としてメッセージをお願いします。 

社会人で野球をやっていて、他大学出身の選手としゃべる機会も多いです。どこも東大相手が一番いやなのだなと思います。負けられないという思いがすごく強いですね。だからと言って自分たちがそれを意識して変わる必要はないと思いますが、僅差で競った試合になったときにこそ力を発揮できるように頑張ってほしいです。この試合は行けるという時は、相手は東大の数倍焦っていて、どこのチームも東大以上にプレッシャーがあります。たまに転がってきたチャンスを確実に生かせるようになると、勝てる試合も増えてくるのかなと思います。ただ、そういう時こそ普段の練習を思い出してやってほしいです。東大生はすごく頑張るので、練習でここまでやり切る力は他大学にはないと思います。試合が練習ぐらいのつもりで行った方が力を出せると思います。普段の練習で十分頑張っているので、普段通りを試合でも出せれば勝ちにつながると思います。

重信 拓哉(しげのぶ たくや)プロフィール

○経歴

2004年 文科Ⅱ類に入学

2006年 経済学部に進学

2008年 東京大学卒業、明治安田生命に入社

20082016年 選手として活躍

2017年~ 明治安田生命野球部コーチを務める

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2019年9月4日

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100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜


【第10回】 松家 卓弘 2005(平成17年)年卒 投手 高松高

高校時代について教えてください。


中学校の軟式野球部の県大会優勝したメンバーの5人が同じ高松高校に入学したので、甲子園に行くための野球が中心の生活をしていました。高校2年生の秋季県大会は準優勝し、四国大会はベスト4でしたが、春の甲子園には出られませんでした。また3年生の春季県大会も準優勝しましたが、夏は3回戦敗退で甲子園には届きませんでした。高校野球が終わって、次は六大学で野球がしたいと思い東大受験を決意してからは勉強だけの生活を送っていました。

―東大に入学された経緯について教えてください。


もともと高校卒業後は六大学で野球がしたいと思っていました。三角監督が高校2年のときに試合を見に来てくれていたこともあって、東大も六大学の中の選択肢ではありました。高校の先輩でもある細川さん(平成16年卒・高松高)に東大野球部の話を聞いたり、高3の夏休みに東大の練習を見学させていただいたりしました。しかし当時は学力が全然足りなくて、慶應に指定校推薦で進学しようと思っていました。ですが、当時の副担任から東大に向けて勉強することを薦められたこともあって東大を受験しようと決意しました。

入部当初の野球部の印象はどのようなものでしたか。

リーグ戦でなかなか勝てない状況でしたが、先輩方が夜遅くまで野球のことについて真剣に話したり、時には熱くぶつかったり、苦しんでいる姿を見て、野球に対する真摯な姿勢と六大学で勝つことの難しさを感じました。またすぐに入寮させていただいたのですが、ほぼ学生だけで寮と野球部が運営されていることに驚きました。

リーグ戦デビューについて教えてください。

2年生の春のリーグ戦の慶大との1回戦でした。春のオープン戦もあまり順調に登板できていなかったのもあって、ゲームを作れるのかが心配でした。案の定、四球からの自滅でたくさん点を取られてしまいました。苦い記憶です。その一方で自分の球をしっかり投げることができれば、ある程度抑えられるのではないかという手応えも感じられた試合でした。

4年間で印象に残っているシーズンや試合はありますか。

4年生の春季リーグ戦の対早大2回戦です。早大に3対2で勝った試合でしたが、7回途中勝っている状況から、リリーフとして登板しました。自分が東大に入って初めてチームの勝ちに貢献できた試合でした。
3年生の時、私は右肩痛で苦しんでいました。学生コーチの川上さん(平成16年卒・栄光学園高)には毎日寮でストレッチしてもらったり、キャプテンの河原さん(平成16年卒・私立武蔵高)にもリハビリに付き合っていただきましたが、結局登板できず、1つ上の先輩方に受けた恩を返せなかったという思いがありました。そのことから、4年生の1年間はチームの勝利に貢献したいと強く思って臨んだシーズンでした。

―プロを意識し始めたのはいつ頃からでしたか。

高校3年生の大学に進学すると決めた時です。大学4年間、野球に打ち込んで必ずプロ野球選手になってやろうと思っていました。

―ドラフトで指名されたときのことについて教えてください。

達成感や安堵感よりも、「これからプロの世界に入るんだ」という覚悟に似た感覚を抱きました。数日経って、大学で実績がないのにプロで通用するのだろうかという不安を強く感じました。

―プロ入り後について教えてください。

プロ野球生活8年間のうち、最初の3年間は右肩痛との闘いでした。肩のコンディショニングが安定しなくて、毎日肩を気づかう生活でした。次第に投げる体力もつき、野球する理解も少しずつ深まってきて、思うようなピッチングができ始めたのが4~5年目でした。5年目終了後に横浜から日本ハムにトレードとなりました。日本ハムでは、当初横浜の4~5年目と同じような球が投げられていたので強い手応えを感じていましたが、指の怪我から肘の故障を招き、最後はフォームや投球感覚も崩してしまいました。

―高校野球の指導者に転身されてからについて教えてください

高校教員になったのは野球の指導者になりたいというよりは、地元に貢献したいという思いからです。好きな野球を好きなだけさせてもらって、自分の限界も知ることができたプロ野球生活の8年間を終えて、「自分のことはもういいや」という不思議な気持ちになりました。そして人の役に立ちたいと純粋に思いました。今は高校教員として、人の成長に携われる毎日をとても楽しく過ごしています。

―現役の投手陣に向けてアドバイスをお願いします。

状況がどんなに悪くても、自分に何ができるのか、自分は何をしようとすべきなのかを明確にして、チームのために最善を尽くしてください。

―最後に現役部員に向けてメッセージをお願いします。

長いようで短い4年間を神宮での勝利のために、必死に過ごすことは人生の財産になると思っています。どれだけ必死になれるかが大切だと思います。うまくいかないことのほうが多いとは思いますが、頑張ってください。秋のリーグ戦のまずは1勝を期待しております。

松家 卓弘(まつか たかひろ)プロフィール

○経歴

1982年 香川県生まれ

2004年 プロ野球ドラフト会議にて横浜ベイスターズから9巡目で指名を受ける

2009年 北海道日本ハムファイターズへ移籍

2015年 香川県内の高校にて教諭として勤務

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2019年8月7日

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100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜


【第9回】 須貝 謙司 2000(平成12年)年卒 内野手 湘南高

まず初めに、高校時代の生活について教えてください。


野球ばっかりの生活でしたね。
当時の湘南高校は校舎改築工事でグラウンドが使えなくて、近隣の空き地を借りたりして練習していました。
校内にはティーバッティングや筋トレをするスペースくらいしかなかったんですが、毎朝監督の指示なしに自主的にみんなで集まって練習をしていました。グラウンドがないのに、夏神奈川県ベスト4まで行けたのは、そういった努力の成果だったと思います。
僕個人としては鎌倉の家から学校まで、片道7㎞を毎日走って通学したりしていました。
受験勉強は正直、秋の体育祭が終わるまでしていませんでした。

―東大を目指し始めたのはいつからですか。


東大を意識したのは夏の大会が終わってからです。
スター選手がいないのに、ベスト4まで進めたのがすごく面白くて。
湘南と同じような条件で野球をできるのが東大しかないと思いました。

浪人時代はどのような生活をされていたのですか。

浪人時代はボールを一回も握っていないんじゃないかな。
予備校は御茶ノ水まで通っていました。
横浜の予備校に通うと友達がたくさんいて勉強できないと思ったからね。笑

浪人時は順調でしたか。

振り返ってみると順調に過ごしたのかな…って感じはするけど当時はもう必死で…。笑
最初は予備校の教科書が何にも分からないレベルだったので、野球は忘れてひたすら勉強しましたね。

リーグ戦デビューについて教えてください。

1年秋の開幕法政戦、2番サードで先発しました。
開幕2戦目で運よくタイムリーを打てましたが、そのあとヒットが出ず、17打数1安打でそのシーズンを終えました。
六大学のレベルを思い知ったシーズンになりましたね。

―2年生からは順調に試合出場を重ねたのですか。

監督が変わった2年春は調子を落とし、5打席しか出場できませんでした。
何か変わらなければまずいと思い、そのあたりから真剣に考えるようになりました。
と言うのも、六大学で野球をやるために東大に入学したのに、このままだらっと4年間終わってしまったら、浪人中の自分に申し訳ないとふと思ったんですよね。その頃から六大学でちゃんと結果を残したいという思いが強くなり、自分のプレースタイルについて考えるようになりました。

―具体的にはどのようなことを意識したのですか。

それまでバッティング練習では、とにかく遠くに飛ばして首脳陣にアピールすることばかり考えていましたが、意識改革後は例えばマシンでカーブを打つ時に、わざとストレートを待っていてタイミングを外された形をあえて作って打つようにするなど、とにかく実戦を想定して練習するようになりました。
それからミートポイントを近づけるために、バットをこぶし一つ分短く持つようにしたんですよね。これが身体を開かずに打つという結果につながり、2年秋ではまたレギュラーに定着し(レフトでしたが)、打率2割超という成績につながりました。

―そのシーズンが、六大学で結果を残せるという手ごたえを感じたシーズンだったのですね。

そうですね。振り返ればやはり、2年春から秋にかけての時間が僕にとってのターニングポイントで、試合に出られないむなしさを味わい、チームの勝利に貢献できないということが恐怖として頭をよぎるようになったんですよね。それがきっかけで練習への取り組みが変わり、そして迎えた2年秋のリーグ戦で、自分のプレースタイルの方向性を見つけることができたと思います。
そこから3年春開幕までの時間は、更に自分のプレースタイルを追求することに費やしました。自分と体格や目指すプレースタイルが似ている他大の選手や、結果を継続的に出している選手などの映像を繰り返し見て、打席での自分に合った待ち方、打ち方を研究しました。

―具体的な選手はどなたですか。

高校の先輩だった後藤健雄さん(慶大・平成10年卒)や、法政の三島裕さん(法大・平成10年卒)、東大の丸山剛志さん(平成10年卒・宮崎大宮高)、濱田睦将さん(平成10年卒・竜ケ崎一高)などの打ち方を参考にしました。

―それが3年春のベストナインという結果につながったのですね。

そのシーズンは最後まで手探りでしたけどね。前のシーズンから比べると少しバットを長く持つように変えて、それでも差し込まれないような打ち方を工夫しました。相手投手の配球を研究したりもしましたね。ストライクが欲しいカウントで何を投げているかとか。リーグ戦中はひたすら打席のことを考えていましたね。いわゆるイメージトレーニングばかりしていました。おかげで目標の一つだったホームランも打つことが出来ました。

―やはり当時は自分の中での達成感はあったのですか。

今振り返ってみれば、僕がベストナインなんて信じられないなぁと思うこともあるけど、当時は打率.351は打つべくして打ったと思っていたと思います。ベストナインまでは考えていませんでしたけど。笑

―3年秋、4年春も続けて3割越えという結果を残されました。

3年春に自分なりの方法を編み出して、完成させたので、その後はそれをしっかりと続けることで同じような成績(3年秋.308, 4年春.333)を残すことができました。4年の秋は成績を残せなかったですけど…。

―4年間を振り返って印象に残っているシーズンはありますか。

自分個人としては2秋~3春にかけて成長できたことが一番ですね。
チームとしては3年秋の早稲田に勝ち点を取ったことが最も印象に残っています。
自分たちが主力として勝ち点を獲ることができ、達成感がありました。

―印象に残っている対戦相手・ライバルと言える存在は。

ライバルなんておこがましいことは言えませんが、意識していた同期は早稲田の藤井秀悟、明治の木塚敦士ですかね。

―この人は全然打てなかったという相手はいますか。

立教の多田野数人くん(平成15年卒)は全く打てなかったです。笑
4年生の時の1年生だからデータがなかったのもありますけど…。
あとは、同期の遠藤良平(筑波大附高)と戦ってみたかった気持ちはありますね。

―学業に話題を移します。学部はどこに進学されたのですか。

工学部応用化学科に進学しました。
同期4人で同じ学部で、野球部の先輩もいたから行きやすかったというのが一番の理由です。

―卒業後の進路はどのように考えていましたか。

元々、野球をどこかで続けたいと漠然と考えていた一方で、自分のポテンシャルの限界もうすうす感じていました。野球をやめてもいいと思える何かを見つけられたらいいなという気持ちで進路を探していました。
当時部長であった河野通方先生と話した時にパイロット採用のことを聞いて、選択肢として考えるようになりました。空を飛ぶことを仕事にするって想像した時に、野球をしている時に近い『わくわく感』を感じたんですよ。
ところが当時のOB名簿を引っ張り出してみたところ、パイロットをしているOBは野球部で誰もいなかったんですよね。なので、どんな人がパイロットとして向いているか分からないまま、素のままで受けたって感じですね。
運よくパイロットに受かってからも野球を辞めるべきかひとしきり悩んで、悩んだ末によしやってみるか、という感じで就職を決めました。

―パイロットとして現役時代の経験が生きていますか。

すごく生きてます。大学時代は、神宮の『観客』にベストのパフォーマンスを見せるということを目標に練習や心の準備をしていましたが、今はそれが『乗客』に代わっているって感じです。背負うものの重さは勿論だいぶ違いますけど、自分なりに十分な準備をした上でベストなパフォーマンスを出すという点では選手時代と同じです。同じ意識で、同じことをやっていると思っています。もっと言えば、東大受験、六大学野球、仕事、全部必要なプロセスは同じだと思っています。
まずは正確な自己分析をすること、次に自分が求める理想像を設定すること、そして最後に今の自分とその理想像の差を把握しその二つをつなぐ道をつくることです。どんなに長い道のりになったとしても、理想像に近づく努力をし続けることです。どの分野においてもこのプロセスは変わりません。僕は受験と野球を通じてこのプロセスを学び、それは今にも生きています。

―現役へ向けて一言

東大野球部に在籍できる3年半という時間はとても短いです。これを意識して毎日頑張ってください。

須貝 謙司(すがい けんじ)プロフィール

○経歴

1976(昭和51)年 神奈川県鎌倉市生まれ

1996(平成8)年 東京大学理科Ⅰ類入学

1998(平成10)年 工学部応用化学科に進学

2000(平成12)年 日本航空に入社

2004(平成16)年 ボーイング767型機副操縦士に就任

2019(平成31)年 ボーイング767型機機長に就任

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2019年7月31日

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100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜


【第8回】 石田 和之 1995(平成7年)年卒 内野手 菊里高

―東大を目指したきっかけを教えてください。


もともと高校野球の先のことを考えていませんでしたが、当時高校の先輩で京都大学と横浜国立大学の野球部に行っていた方が練習に来ることがあり、大学野球を意識するようになりました。横浜国立大学行っていた方から大学で野球やるなら慶應がいいんじゃないかと聞いて、高校2年の冬に東京に来る機会があったときに慶應と、参考までに東大のグラウンドに行ってみました。高3の夏に慶應が主催している練習会に参加したのですが、全国から5、60人高校生が来て、なかなかの実力者が揃っているし、僕の実力だと厳しいかな、と。そこで東大を本気で考えるようになりました。
当時は70連敗の時代で、そういう話題で多少メディアにも出ていたので、自分が入部して強くしたいなという思いもありました。

―1年生の秋季リーグ戦で初出場を果たしますが、その時のことは覚えていらっしゃいますか。


夏のオープン戦も出させてもらって、体が華奢でヒットは打てていませんでしたが、守備は評価されていていたかなと思います。
秋のリーグ戦はベンチには入れると思ったけれど、開幕戦がスタメンで、「え、そうなの?」と思い緊張感もありましたが、嬉しかったし楽しかったですね。最初の3試合はスタメンで使ってもらえて、その後は先輩の方が調子が上がってきたので途中から出場、という感じでしたが、守備は問題なく出来ていたかなと思います。同期ではセンターの濤岡(県立千葉高)とサードの片山(横浜翠嵐高)と3人スタメンで使ってくれて。平野さん(昭和53年卒・戸山高)が監督就任1年目ということで新しい戦力を使ってくれたのではないかと思います。

―2年生からはレギュラーに定着しました。

2年生の時は全試合出ましたが、春も3本くらいしかヒットを打てていないし、打率は年間で1割5分くらいかな。守備はそれなりに出来たけれどバッティングは通用せず、代打を出されたりしました。秋のリーグ戦の最後の方は1つ下の学年に内野手が何人かいたので、最初に下の学年がスタメンで出て、代打を出して、さらに代打を出して、その後最後の守備に僕が、ということも多く、やはり守備は評価されていたのかなと思います。

―3年生の春のリーグ戦ではベストナインを獲得されました。

3年生になったときに、去年全然戦力になれていない、勝ちに貢献できていないと思いました。守りができても役に立たないという思いがあったので、試合に出たいけれど、ただ守りで出るのではなく、打てないとだめだなと思うようになったんですよね。
開幕の10日前くらいに大沼さん(昭和49年卒・仙台一高)が指導で来てくださった時にやった練習が少し変わっていて、自分ではやってみて違和感があるけれど割と良い打球が飛んだりして、何か掴んだような感じがしました。それで開幕を迎え、開幕2試合では1本しか打てませんでしたが、次の週に4本ヒットが打てて、大沼さんに言われたことがなんとなくできるようになってきたのと、それまで出場経験もあるので段々と対応もできるようになっているのを感じました。
あとは2年生の秋の新人戦でひどい捻挫をして、冬は体づくりをしなければと思い、初めてスポーツマッサージに行ったときに「君の体は野球をやる身体ではない、硬すぎだ。」と言われて。それでトレーニングやストレッチをして、体つきが良くなってきたりしたのもあります。
2年生までの打席経験、体が出来てきたことと、大沼さんからアドバイスをもらったことで打てるようになってきて4カード終了時点で安打数は10本くらいでした。それまでは下位打線だったのが上位打線も打たせてもらえるようになって、打てるようになったのを実感しましたね。最後の立教戦の試合は4試合行ったのですが、3安打しか打てず打率を下げてしまって。立教のエースの川村(平成7年卒)投手に対してあまり相性が良くなかったんですよね。
リーグ戦が終わって、当時は学生コーチもいないし、助監督もいない年だったので、指導者志向ということもあり新人戦の指揮を執ることになりました。なので新人戦の練習をしていて、閉会式に行っていないんですよ。それで連絡が来てベストナインだ、と。周りもえっ、という感じだし、自分も驚きました。
ベストナインを獲れた理由としては、他大学のセカンドがあまり固定されていなかったこと、他のセカンドの成績が良くなかったことが大きいです。

―また、秋には40年ぶりの勝ち点を挙げました。

法政はその春に引き分けていて、割とやりやすい感じはありました。秋は初戦は負けたけれど2戦目3戦目はロースコアで勝てたんですよね。その時代勝てていた要因として、高橋(平成8年卒・北野高)という1つ下のピッチャーの存在が大きかったですね。高橋は勝っている試合で出てきて逆転されることがないピッチャーでした。勝ち点を挙げたその2試合も、高橋が最後の3回ぐらいを抑えてくれました。

―勝ち点獲得直後のチームの雰囲気はいかがでしたか。

お祭り騒ぎのような感じでしたね。当時は神宮球場へ行くのにバスが出ていて、車内ではしゃいでいる写真が新聞に載ったりしました。そのあとから取材が増えて、TBSが追いかけてくれたりしました。次の早稲田戦の2戦目は試合自体は負けましたが、僕が初めてホームランを打てて、それをTBSで全国に流してもらったりしました。それは嬉しかったですね。

―4年生の春のリーグ戦では惜しくも単独5位とはなりませんでした。チームの皆さんはどのように感じていらっしゃいましたか。

僕らの世代は結構期待されていたように思います。濤岡は全日本代表の候補になったり、東大の三塁打記録、盗塁記録を持っているすごい選手でしたし、同期のキャッチャーの北村(金沢泉丘高)も良い選手で当時の高校野球の雑誌をみると石川県のナンバーワンの打者って書いてあったくらいセンスがありました。サードの片山も体格が良くてパワーは抜群。
下の学年にも高橋に加えて首位打者を獲った間宮(平成8年卒・横浜翠嵐高)や、小原(平成9年卒・県立千葉高)がいたので、もっといけるだろうという実感はありました。
そのシーズンは4つ勝って、4つ1点差で負けて、そのうち2つは9回で逆転されて。もっと勝てたな、と今でも思いますが、そのことを後に平野さんに話したら勝てそうな試合が8回あって、その中の半分勝てたのはいい方なんじゃないかな、と言われました。これが春のリーグ戦です。
秋は、勝ち点を挙げた最終カードの立教戦で1戦目は負けましたが、2戦目で尾崎(平成7年卒・海城高)が完封勝ち、3戦目も濤岡が先頭打者ホームラン打ったりして12-1で勝ちました。その試合、僕は1イニングで2回アウトになったりと5打席ノーヒットだったんですけどね。自分が打って勝てた試合はそれほどなくて、みんなに勝たせてもらった感じでした。

―同期の方にはライバル意識を感じていましたか?

僕が打つとみんながっかりするんですよ。ホームランになりそうな当たりが風で押し戻されてフライアウトになった時に、僕がベンチに帰ってくるとみんな喜んでて、「やられたと思ったよー」と笑われたりしました。ある意味チームとして余裕があったのかなとも思います。打ってくれ!という雰囲気ではありませんでしたね。

―大学時代の私生活はどうでしたか。

勉強はしていなかったですね。語学と体育は比較的授業に行っていたけれど、他は行かなくても大丈夫だからと先輩に言われて真に受けて行っていませんでしたね。追試も受けました。野球以外に興味の持てる分野もなかったので教育学部の身体教育学科(当時は体育学健康教育学科)に進学しました。3年生からキャンパスが本郷になるからといって授業に必ずしも出席していたわけではありませんでしたが、学科の先生は理解してくれたし、単位はもらえていました。
寮の印象は、1年生で初めて練習に参加した日に着替えに行った際、ここに本当に人が住んでいるのかなと思うほどでしたが、結局3年間住み、違和感無くやっていけるものだな、と思いましたね。自由時間には誰かの部屋に集まって、何をするでもなく漫画を読んだり、ゲームをしたり、ドラマを観たり、などしていました。

―当時の練習はどのような感じでしたか。

全体の練習はそれほど長くないんですよ。バッティング練習が中心で、守備の練習はそれほどしませんでした。レギュラークラスがバッティングをして、その後に他の人がバッティングをして終わりという感じだったと思います。平野さんは守備練習については時間を取らないから、バッティング練習中に守ればいいという方針でした。僕はバッティング中の守備練習が好きでしたね。シーズン中はシートノックすらほとんどやらなくて、とにかく打たなきゃしょうがないという感じでしたね。全体練習後に自主的にトレーニングしたり、結果的には夜までやっていました。

―卒部後5年間助監督を務められました。きっかけはなんだったのでしょうか。

東大野球部以降の生活を何も考えていない中、周りは就職活動をしていて、焦るというよりはみんなが大人になってしまうようで寂しさを感じました。とはいえ野球にはずっと携わりたかったので、平野さんにも大学に残ったらどうだと言われ、大学院に進学しました。当時は助監督は大学院生がというのが既定路線で、僕もその流れで助監督をやりました。学問がしたくてというよりは野球をやる道を探して大学院に入ったという感じですね。

―就職先はどうやって決めましたか。

国立スポーツ科学センターが2001年に発足した時に、若手研究員をたくさん採用してくれるということで、僕も学問を突き詰めるというよりはスポーツに携わることがしたかったので応募しました。一流選手が国際大会に行く前に必ず体力テストや検査をする機関で、その測定の担当をしました。シンクロの大会に行って水中カメラで演技の様子を撮影したり、それまであまり触れていなかった生理学の実験を手伝ったりしながら、色々な競技の人を見られたのは面白かったです。

―次に読売巨人軍に就職したきっかけはなんだったのでしょうか。

僕が大学院生の時に平野さんのところに、ジャイアンツの方が選手のコンディショニングについて相談に来たんですね。何も資料がないと分からないので、定期的に簡単にできるパワーテストをやって、シーズン中の疲労でパフォーマンスが落ちるかなど確認しようという話になりました。選手を対象にした月1回のパワーテストの資料のまとめを僕がやっていました。その後、国立スポーツ科学センター所属中もそれを続けていて、3年の契約期限が切れる際にジャイアンツで正式に働くことになりました。
その後、その方が人材交流で数ヶ月キューバに行った時に、人口が少なくても競技力を保っているのはどこへ行っても同じように子どものころからマニュアル通りに指導して、その情報が集まってナショナルチームができていることを見てきました。
同時期にFC東京の話も聞いて、Jリーグはユースチームや小学生、幼児向けのスクールを作っていて、普及、育成に努めている一方、野球にはそのような組織が無く、サッカーに人が流れていってしまうのではないかという話になりました。少年野球はチームも誰かのお父さんが指導していたりして、しっかりとした指導を受けられていないケースもあるし、このままではまずいねと。あとは、公共のグラウンドで有料の講座を開くことが認められてきたり、と色々なことが合わさって、まずは都内2か所で子ども向けの野球のスクールをやってみよう、となりました。元々のコンセプトは一流の経験を持った人しか教えられないのではなく、誰でも教えられるように内容をシンプルにする。1つずつ段階を作って、幼稚園児はこれくらい、低学年はこれくらいできればいいというような基準を作るというものでした。やっていく中で形は少しずつ変わりましたが、コンセプトは変わっていません。
実は大学院時代のテーマが子どもの動作の発達過程ということもあり、子どもがいかに上手くなっていくかとか、どの年齢でどれくらいできるようになるのか、に興味があったので、この事業に携われたのはありがたかったですね。

―仕事で印象に残っていること、やりがいはなんでしょうか。

スクールの生徒たちが楽しそうにしてくれていたり、親御さんに感謝してもらえたりすることですね。あと、場所によっては人数が多すぎて定員オーバーでキャンセル待ちの場合もあるのですが、空きが出て電話をして「次は入れますよ。」と伝えた時に喜んでくれると嬉しいですね。あとは、グラウンドを貸してくれる役所の方も含め、どこへ行ってもやっている活動は前向きに評価してもらえる、認めてもらえていることもありがたいことだなと思います。

―石田さんにとって東大野球部はどのような存在でしょうか。

もともと東京を目指す意識は無くて、野球を続けていてこのまま終わりたくないと思っていたところ、東大に出会いました。そして、運良く入れて、入ってみたらすごく楽しくて、そこから抜けられなくなって9年間。色々な出会いがあって、東大に来たことで今の生活もありますし、人生はそこで変わりましたね。
あとは、チャンスをくれた場所ですよね。無名高校の無名選手だった自分に神宮のグラウンドに立つチャンスをくれた場所です。野球で選抜されてこなかった人にとっての最後のチャンスだと思うんです、東大野球部は。僕にとってはそういう位置付けですね。

―最後に、現役世代へのメッセージをお願いします。

野球についてはみんな一生懸命やっていると思うので、心配する必要はないですけど。
進路についてもたぶん考えていると思います。僕みたいにただ野球が好きで生きてるだけではちょっとまずいね、という感じですかね。
あとは、学生時代に他の経験がもっとできたんじゃないかなって思っていて。せっかくの学生時代なので野球に熱中するのも良いですけど、それ以外の時間がないわけではないから、他のこともやってみるべきではないかなと思います。

石田 和之(いしだ かずゆき)プロフィール

○経歴

1972年  愛知県名古屋市生まれ

1991年  東京大学理科Ⅱ類入学

1995年  東京大学大学院教育学研究科進学

1995年  東大野球部助監督就任(〜1999年)

2001年  国立スポーツ科学センター

2004年  読売巨人軍

2006年よりジャイアンツアカデミーに携わる

 

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2019年7月17日

(・年・)

100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜


【第7回】 階 猛 1991(平成3年)年卒 投手 盛岡一高

―東大に入学された経緯を教えてください。


私は岩手県立盛岡第一高校に通っていましたが、当時は東京大学をあまり意識していませんでした。きっかけは模試の成績で、当時の模試の成績がたまたま良くて、そこから意識し始めました。ずっと地方で育ってきたので東京で一人暮らしをしたいというあこがれがあり、東京の大学に進学するからには、東大に入りたいという思いもありました。結果的に現役合格することができず、浪人してからは御茶ノ水にある予備校に通い、二浪してやっと入学することができました。決して裕福ではない家庭でしたが、自分のやりたいことを最後までやらせてくれた今は亡き両親に心から感謝しています。

―東大野球部に入部されたきっかけについて教えてください。


一浪で合格を決めることができずに途方に暮れていた時に、春の東京六大学野球を見に行ったのがきっかけでした。当時は何も把握していなくて、東大野球部は弱いものと思っていたのですが、実際に六大学のリーグ戦を目の当たりにしてみると、東大が一方的にやられているどころかほぼ互角に渡り合えていて、とても感銘を受けました。注目度もあり、他の五大学とも明治神宮球場で渡り合える。そこで自分も野球をしてみたいと思い、東大野球部に入部したいと決心しました。

―東大野球部に入ってからはどうでしたか。

朝、部員が集まって練習して、夕方練習が終わったらアルバイトするなど。そんな毎日が続きましたね。他の大学生と比べれば、自分たちはほとんど遊んでなかったですね。
野球に対する考え方も色々あると気づかされました。東大野球部には全国各地から様々な人が集まってくるため、野球との関わり方も様々でした。多様な考え方ができるようになったというのもいい経験になりました。一方で、野球に人生を賭けている他大学の選手のプレーやそこに至るまでの努力する姿に感銘を受けました。

―投手として一番印象に残っている試合はどの試合でしょうか。

自分が先発投手として出場した大学2年生の春の明治大学との一戦です。大学1年生の時の秋の開幕戦で慶應義塾大学に勝利し、それ以降通算200勝に王手がかかっていました。両者譲らずに中盤まで0対0のロースコアゲームが続き、ついに7回表に石井さん(平成2年卒・県立千葉高)のタイムリーで先制しました。しかし、7回裏、2アウトから2ランホームランを打たれてしまいました。ホームランを打たれた前の投球が際どいボールで、個人的にはストライクで三振だと思いました、審判のコールはボールでした。そのボールより少し内側に入れようと思って投じた球が失投となり、ホームランを打たれてしまいました。結果的にはその2ランホームランが決勝点となり、1対2で敗れてしまいました。この試合で勝っていれば大型連敗することがないような気がして、大変悔しい思いが残る試合でした。

―その後、野手に転向しました。

大学2年生の冬の時、球威をあげようとフォーム改造に着手しました。しかし、新しいフォームが自分にしっくりこなく、球威が上がるどころか肩を故障してしまいました。大学野球で投手として活躍することが不可能になり、3年生の夏から半年間休部しました。故障直後は野球部から退部しようと考えていました。しかし、チームは連敗が続いていて、選手はなんとかして連敗を止めようと必死に頑張っているのを受け、自分も少しでも力になりたいと思い、3年生の冬に復帰しました。その後は野手として練習に参加し、4年生の時には、自分が打てば同点というチャンスに、代打で何度か出場させてもらいましたが、結果を出すことができず、無念でした。

―卒業後の進路を教えてください。

卒業後は日本長期信用銀行に勤務しました。当時はバブルの絶頂期であったため、就職活動に困ることはあまりありませんでした。長銀にどうしても行きたいから入ったというわけではなく、成り行きで入行した感じも少しありました。また、会社の中で自分の意見を主張していくには相応の能力を持っていないといけないと思い、長銀に勤務しつつ司法試験の勉強も始めました。しかし、当時の合格率は2, 3%に過ぎず、何度も落ちました。
バブルが崩壊した後、長銀も経営破綻し新生銀行となり、その後も勤務しながら勉強も続けて、なんとか司法試験に合格して社内弁護士になりました。働きながら司法試験に合格できたのは、高校、大学で「文武両道」を実践してきたからだと思います。

―その後、衆議院議員になられました。

きっかけは、高校と大学の先輩にあたり、当時岩手1区から選出されていた衆議院議員で岩手県知事に転身された方から打診を受けたことでした。東大に入学してからは故郷である岩手を離れて活動していて、これを機に故郷に恩返しをすることができると思ったため、立候補を決断しました。
衆議院議員として活動するようになり、大勢の人の前に立って演説することが多くなりました。自分の意見とは反対の立場の人も説得しなければならなかったり、自分の考えた通りに物事を運ぶことができなかったりすることも多々あります。その中でも自分の信念を曲げずに正しいと思う道を進めようと行動できているのは、やはり大学の4年間、東大野球部で連敗を何としても止めようと日々練習してきたことで培った逆境に耐える精神のおかげだと思っています。これは、衆議院議員としての活動に限らず、司法試験勉強などの様々な活動にも役に立ったと思っています。

―今までの人生の中で、現役時代はどのようなものですか。

お世辞にも華やかな4年間だったとは言い難いですが、野球に打ち込む環境が整っていて非常にやりがいのあった4年間だったと思います。結果的に在籍期間の間は1勝しかできませんでしたが、結果が出なくてもあきらめずに努力し続けたことは何にも代えがたい非常に有意義な経験だったと思っています。

―最後にチームに向けてメッセージをお願いします。

簡単なことではないのは分かりますが、まずはどんな形でも1回でいいので勝ってほしいですね。負けが続いてしまうと精神的にどうしても良い方向へ向かうことが難しく、一時的にリードしても相手に反撃され始めたら気持ちがどうしても萎縮してしまいます。勝ちを経験することで自信につながり、精神的にも強くなれると思います。
今年の春のリーグ戦は序盤で点を取られて一方的な試合展開になることが多かったのですが、後半の方は接戦に持ち込んだ試合展開が多くあったので実力差はそれほどないと思います。食事管理とトレーニングによって自分たちの頃よりも断然良い体格の選手がほとんどですし、年々強くなっていると感じます。なんとか序盤で食らいついて接戦に持ち込み、相手のペースを崩して自分たちのペースに持ち込むことが大切なのかなと思います。険しい道のりだと思いますが頑張ってほしいです。

階 猛(しな たけし)プロフィール

○経歴

昭和41年10月  岩手県盛岡市生まれ

昭和62年4月  東京大学文科I類に入学

平成3年3月  東京大学法学部を卒業、日本長期信用銀行に入行

平成10年10月  同行破綻し、政府により国有化されるもそのまま在籍

平成15年年11月 司法修習(第56期)を経て、新生銀行社内弁護士になる

平成19年1月  みずほ証券に転ずる

平成19年7月  衆議院議員補欠選挙に岩手1区から立候補、初当選

平成21年8月  衆議院議員総選挙で再選、総務大臣政務官となる

平成24年12月 衆議院議員総選挙で三選

平成26年12月 衆議院議員総選挙で四選

平成27年1月  民主党「次の内閣」ネクスト内閣府特命大臣に就任

平成28年9月  民進党政務調査会長代理に就任

平成29年9月  民進党政務調査会長に就任

平成29年10月 衆議院議員総選挙で五選

平成30年5月  国民民主党に参加し、政務調査会長代行に就任

令和元年5月  国民民主党を離党

 

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100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜


【第6回】 大越 健介 1985(昭和60)年卒 投手 新潟高

―東大に入学された経緯を教えてください。


高校2年生の夏の大会でキャッチャーとしてベスト4になって、チーム事情でピッチャーとなった高校3年生の夏はベスト8まで行きました。夏の大会が終わった直後は、もうこれで野球は終わりだと思ったんだけど、一晩寝たら翌日からまたやりたくなったんです。東大以外の五大学はやはり野球エリートだけが行くところっていう認識があって、新潟の普通の公立高校から自分が行けるとは思わなかった。逆に言えば東大以外選択肢がなかったって感じかな(笑)。自分は野球しかやってきてないから、これから勉強すれば伸びるだろうという根拠のない自信もあった。現役ではとても追いつかなかったけど、1年間御茶ノ水で予備校に通いながら浪人して、無事合格できました。浪人中から練習も見学に行っていたので、早くここに入りたいなと思っていましたね。

―サイドスローを始めたきっかけについて教えてください。


高校3年生でピッチャーをやっていた時はきれいなオーバースローでした。それから大学に入ったときは自分の体の小ささも考えて、実は内野手をやりたかったんです。3万円もするゼットのセカンド用のグローブを買ってアピールしたけど、素性がバレて1年生の夏からはピッチャーとして合宿に帯同した。ピッチャーをやる運命にあるとわかった時、自分のオーバースローの綺麗なボールでは、他の五大学に打ち崩されるだろうなという感覚がありました。だから1年夏のオープン戦の中で少しずつ腕をスリークォーターまで下げていった。1年秋を経てアンダースローと言うよりもこのときはサイドスローかな。サイドスローは無理なく投げれられたので、感触を掴んで2年の春から先発させてもらいました。

―入部当初の野球部の印象はどのようなものがありますか。

僕らの代は鮮烈な印象があります。武道館の入学式を終えて、新人部員は神宮球場のスタンドで観戦したんだけど、その時が初戦でなんと法政に3-1で勝ったんです。「赤門旋風」って言われた年なんだけど。やっぱり雛鳥が最初に見たものを親鳥だと思うのと同じように、当時1年生で雛鳥だった僕らは、初めて見た先輩たちが当然のように法政に勝つ。雛鳥とすれば、自分たちも当然勝てるチームにいるんだという意識を保つことができた、それがすごく印象的で後々大きかった。その時のシーズンは6勝7敗で、途中まで優勝するんじゃないかって言われてた。立教の4連戦で負けて優勝の夢は断たれるんだけど、エース大山さん(昭和57年卒・学芸大附属高)、キャプテン大久保さん(昭和57年卒・湘南高)っていうメンバーで、その4年生を見ていて、東大野球部って決して負け続けるところじゃない、頑張れば勝てるっていうある種のマインドセットができたことが東大野球部の4年間の中で本当に大きかったと思います。

―4年生の先輩が引退された後について教えてください。

同期は盛岡一高の八重樫とか、1つ下には国立高校で甲子園球児の市川、2つ下には浜田(現監督、昭和62年卒・土佐高)と各地から良い選手が来ていた。もちろん力は他大学よりも相対的に劣ったけども、心理的にゲーム運びで優位に立てれば十分勝つことは可能だっていう、自信というよりは思考があったよね。勝つことがそれほど大きな壁じゃなかった。だから年間9勝した4年生が抜けた後も、もちろん戦力的には落ちたんだけどどっかで勝つんじゃないかなっていうのは思ってたし、実際に2年の秋には初勝利をあげてるし、だからやっぱりその先輩たちの影響が大きかったです。

―大学日本代表に選出された時のことについて教えてください。

あれは3年の春のこと。僕は1年の春から脱臼癖があったんですよ。内野手志望で張り切りすぎて、ノックを受けて飛び込んだ時に左肩を脱臼しちゃった。それが1年の春からずっと続いていて、いつも脱臼との戦いではあった。それで3年の春も脱臼をやってしまって、初戦の慶應戦かな、三塁打を打って滑り込んだ時に結構深刻な脱臼で、救急車で運ばれました。でもそこから逆に手負いの虎じゃないけど、自分の中でスイッチが入って、テーピングでぐるぐる巻きにした上で1週間で実戦復帰しました。そうしたら早稲田に連勝して、法政には負けたんだけど、7回2アウトまで1安打みたいな良い投球ができました。それがまあ投げ方のきっぷがいいってことでおそらくセレクションで選んでもらったのかな。あとは当時まだアメリカの選手たちっていうのは、サイドハンド、アンダーハンドに慣れてない、つまりその方が通用するっていう考え方があって、本格派でないサイドハンドのピッチャーとして選ばれたんだと思いますけどね。

―最終シーズンはいかがでしたか。

秋は本当に良い試合ばっかりで負けていました。競った試合だったんですよ、みんな。春の戦いぶりからしても、うまくいけば俺たち結構いけるんじゃないかっていう気持ちをずっと持っていた。だけど、モノにできそうな試合を落とす、少なくともカードで1勝2敗には持っていけそうな中で勝てないっていう、じりじりとした苦しい展開で8連敗。最後はもう開き直って行こうよっていうので立教には勝って、2戦目は落としたけど3戦目で勝ちました。最終シーズンは自分たちが持っている力を出し切れなかったという悔いの中で、最後のカードでなんとか勝ち点を挙げて終われたっていうのだけは救いでした。

―卒業後の進路としてNHKを選んだ理由を教えてください。

大学の3、4年、特に4年で自分の投球はこれで限界だなって思いました。体も小さいし、サイドスローでシュートピッチャーだったから肘も結構酷使してて。試合になればアドレナリンが出て投げられるんだけど。これで野球はたとえ肘が壊れてもいいので終わりにするっていうつもりでやっていました。マスコミに入りたいっていうことを考えたっていうより、社会人野球からのお誘いに応じられないなっていう自分の野球の限界を感じていたので、そこからじゃあどうするかって考えました。元々関心のあったメディアっていう仕事は、当時は今と違って、4年の11月一発勝負みたいな感じだった。それまで問題集で勉強をして、まあ失敗したら留年すればいいや、受からなかったら受からなかったでしょうがないっていう気持ちでNHK一本に絞って受けて、結果的に入ることができました。

―NHK入局後はいかがでしたか。

NHKの記者の場合は、入社後全国に一斉に散らばるんです。僕は岡山が初任地なんですけど、岡山で4年間を過ごして、その後で政治部に誘われました。政治取材って、その時のキーパーソンの懐にいかに飛び込むかが勝負。情報の真相をどう取るか、特ダネ競争もそうだけど、特ダネを抜かないまでも間違った方向のニュースを出さない。NHKのニュースは絶対に間違っていないという世間での常識を維持し続けないといけない訳だからまあ忙しかった、責任も大きかったし。自分にとって運が良かったのは、取材をする中で魅力的な政治家に何人も出会って、その人が考えている魅力的なこの国の姿であるとか今起きている問題への対処の仕方であるとかに触れられたこと。政治家っていうと悪代官みたいなイメージがあるけど、中には高い志を持ってやっている人も多いわけで、そうした志に触れて、今起きていることの本質は何かってことを自分なりに探求したこと、いくつかの政権交代の渦中で取材の一線を張り続けることができたっていうのは自分の中で非常に大きかったですね。世の中というもの、政治というものを知る上でも。

―記者になられてから野球部での経験が役に立ったことはありますか。

無かった(笑)。当時は本当に忙しくて、申し訳ないけど六大学もほとんど見る余裕がなかった。やっぱり体力的には「お前野球やってたから強いよね」って言われることが多かったっていうぐらいかな(笑)。

―キャスターになられた経緯を教えてください。

政治部に16年いて、与党キャップまでやって、ある程度現場ではやり尽くしたところまで行っていたので、この後は渋谷でのデスク業務に上がるのかなって思っていました。ところが急遽ワシントン支局を4年間担当することになった。最初はなんで自分がワシントンって思ったんだけど、当時オバマ大統領を生み出す歴史的な選挙を取材できたっていうのはすごく大きなことでした。国内の政治は16年間身に染みてわかっていたけど、一方でワシントンを舞台とする国際政治、それからアメリカ社会を学べたっていうのは結果的にものすごく良かった。将来いずれキャスターにという考えが上層部にあって、そういうことを経験させてくれたんだと思います。日本に戻ってきてから「ニュースウオッチ9」のキャスターになりました。

―キャスター時代には野球部での経験が役に立ちましたか。

キャスターはやっぱり文字通りニュースをキャストする仕事。ニュースって生き物なので、その日のニュースをどう捌くかっていうのがニュース番組で、アナウンサーでなく記者出身の人間がキャスターをやるっていうのが意味があると思う。もちろん自分一人でやるわけじゃないけど、これはこう出して伝えようだとか、あれはオーダーとしては前に持ってこようだとか、ここではこういうことを語れるんじゃないかとか。ジャーナルを目指すっていう志のもとで、ニュースを配置していく、そのニュースに対して自分の言葉でコメントをつける。それはある程度の経験を積んで、ある程度の度胸があって、という人間がやる仕事。まあピッチャーをやったおかげで度胸だけはあるから、キャスターをやっている時っていうのは野球部でのピッチャー経験は大きかったと思います。更に言えばピッチャーってその空間を支配するんです。単調になって打たれるのもピッチャーの責任だし、逆に空気を変えてうまい具合に相手の気をそらすことや、調子のいい時にはテンポアップして攻めていくこともできる。ゲームを支配するのはピッチャーだと自分は考えています。それってニュースキャスターのスタジオ運営も共通で、自分が喋らないと始まらない、ピッチャーも自分が投げなければ始まらない。それで観客もベンチもバックもバッターも、みんながピッチャーを見ているわけだけど、それはキャスターも同じ。キャスターをやってる時にはピッチャー経験っていうのが本当に活きたなと思います。

―サンデースポーツのキャスターになられた経緯を教えてください。

「ニュースウオッチ9」のキャスターが終わって3年間世界放浪をしました。世界を見に行って自分で取材、リポートをして番組を作るっていうのをやっていたんだけど。途中からスポーツだとか政治だとか経済だとか社会だとか、ジャンル分けってそもそも意味があるのかなって思い始めて。人間の営みを取材する仕事っていうのは、それを正確に掴んでより深く掘り下げた上で世の中に伝えるっていう仕事は、正直言って便宜的にスポーツだ、政治だって区切っても区切らなくても同じだと思いました。だからスポーツをやるってことに違和感はあまりなかったというか、スポーツを通じてやっぱり人間の営みを伝える訳だから、ジャンルは逆になんでも良かった。でもNHKの放送を通じて自分が一番力を発揮できることは、自分で取材をして自分の言葉で伝えるという、記者でありキャスターであることが一番いいと思ったのは事実です。しかも2020年に東京オリンピックパラリンピックっていう社会変革が来る。それに向けて世の中を単に盛り上げるんじゃなくて、せっかくのこのチャンスを後世にとってより良い社会にしていくきっかけにしたいと思いました。最近だとスポーツを通じて見えてくる社会の矛盾、古い日本の体質っていうのが一気にあぶり出されてきて、それはやっぱりある種のオリンピックのレガシーだと思うんですだよね、もうすでに。単にスポーツを取材してるんじゃなくて、社会現象を取材しているのだと思います。スポーツを通して我々人間の営みを、良きにつけ悪しきにつけ見ることができるっていうのが今の一番の面白さで、そういった意味で入口はなんでも良かったんですよ。

―現役の投手陣に向けてメッセージをお願いします。

先ほどの話と重なるんだけど、場を支配して欲しいと思います。東大の投手陣も臆することなく、飄々とその空間を支配して欲しい、それでその自分の空間の中に相手を引きずり込むような投球をしてほしいですね。多少球威なんて無くたって抑え込める。今この歳になってようやくわかったことなんだけど、空間を支配することが大事なんだと本当に思います。

―32連敗中のチームにメッセージをお願いします。

勝つ味を知らないと次の勝ち方もわからないものですよね。勝つのは大変なことではあるけれども後輩につなげるためにも、どんな手を使ってもいいからとにかく1回勝って早く勝ちの味を知ってほしい。勝ちっていうのはこういうことなんだっていうのは、プレーしている選手のみならず後輩にも必ず繋がっていくので。戦力的にそんなに楽じゃないのもわかっているけど、この前の坂口くんみたいに明治大学相手にあそこまでやれるケースもあるわけだから、勝つ味をぜひ覚えていただいて。東大が勝つパターンっていうのはどういう時なのかを、今のチームカラーに応じて、このチームの勝ち方ってどういうことなんだろうってことを突き詰めてほしいなと思います。

―最後に現役部員に向けてメッセージをお願いします。

アスリートになってほしい。東大野球部員っていうよりは、チームの勝利のため、ひたすら自分に対して真摯な姿勢で最大のパフォーマンスを発揮できるようなアスリートを目指してほしい。それは将来のためになるからなどではなく、今を完全燃焼するためにすごく大事だから。今自分は明確な希望がないとか、生きる指針がないとか、将来が不安だとか、気持ちはわかるけどもそんなのは当たり前なので、今その一瞬一瞬を完全燃焼する、どうせ悔いは残るけれども、できる限り完全燃焼するっていうのを目指してほしい。東大の野球部っていう恵まれた環境で、神宮を舞台に野球をやれるっていうのは選ばれた人たちなんだから、選ばれた人たちの責任として自分なりのアスリート像を在学の4年間で見つけてほしいと思います。どうせいつかは考えざるを得ないんだから、せめて野球をやっている間は、野球部員をやってる間はあんまり先のことは考えなくていいと思います。

大越 健介(おおこし けんすけ)プロフィール

○経歴

1961年(昭和36年)  新潟県生まれ

1985(昭和60年)  東京大学文学部国文学科を卒業後、NHKに入局

2005(平成17年)  ワシントン支局特派員に就任

2007(平成19年)  同支局長に就任

2010(平成22年)   「ニュースウオッチ9」のキャスターに就任

2018(平成30年)
  「サンデースポーツ2020」のキャスターに就任

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2019年7月14日

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100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜


【第5回】 丹下 健 1981(昭和56)年卒 マネージャー 県立千葉高

―東大に入学された動機を教えてください。


野球をやりたいというのが一つと、もう一つは私の父親が東大の教員、千葉県にある東大の演習林の助手をやっていたんですよ。というのもあってわりと東大が身近ではあったというか。そんな感じですかね(笑)。
高校のときくらいに進路を考えて、そのときに林学をやろうかなと思って。林学というものも知っていたし、今の造林学研究室があることも知っていました。まあ家庭環境がそうだったからね。生物学をやりたいと思っていたのと、あまり遺伝子とか細かいことより植物を対象にしよう、個体レベル以上をやりたいなと思っていて、それで林学、造林学を選んだ感じです。

―入学前から東大野球部に入ろうとは思っていたのですか?


入ろうと思っていましたね。中学まで野球やっていたんですけど、高校時代は野球をやっていなくて。大学に入って、野球部に入れてくれと野球場に直接言いに行きました。

―高校のときに野球をやっていなかったのはなぜですか?

中学から高校を受験するときに、東京学芸大学附属高校と県立千葉高校の二つを受けて、学芸大附属に受かるぐらいだったら野球をやろうかなと思っていたんですけど受からなくて(笑)。まあ千葉高だったのでとりあえず勉強するかーと。野球部はあったけど入らずにひたすら勉強していました。

当時の小笠原文也監督(昭和44年卒・日比谷高)は情熱家で、東大カラーを変えようと奮闘していた人だった。徹底的にミスをなくすことを目標にして、相手チームが仕掛けてきたときにいかに防ぐかを考えて、その練習をたくさんしてきた記憶があるね。

―東大野球部に入ってからはどうでしたか?

一年間選手(外野手)をしていて、新人戦で春と秋に代打で1回ずつ打席に立って、春はちょっとだけライトを守りました。ちなみに春秋どっちも三振して終わりました(笑)。それからマネージャーをやることになって。マネージャーは誰かやらないといけなくて、一つ上のマネージャーの人からやれって言われたのかな。

―ご指名だったんですね。

断ったら野球部やめるかどうかという話ですからね。
最初の練習会から含めれば自分の学年はトータル20人くらい入ったけど、結局どんどんやめていって、8、9人くらいになって、マネージャーが決まらないことで辞めていく人もいて、最後は6人くらいになったかな。その中では誰かマネージャーやれと言われたらやるかという話になってはいたので、結局は自分がやったということですね。

―マネージャーになって苦労したことなどはありますか。

苦労というか…。別に仕事が大変なわけじゃなくて、最初は電話番とかだったので…。

1年生の2月くらいにマネージャーになったんですけど、4年生の神津さん(昭和53年卒・学芸大附高)は卒部して、3年生の人が辞めちゃったので、2年生の柏崎さん(昭和55年卒・栄光学園高)と二人で全部やっていたわけですよ。
最初は寮の留守番、電話番、監督のユニフォームの洗濯とか、そういう雑用ばかりだったから大したことはなかったかな。

 ただ4年生のときが当番校だったので、3年から見習いが始まるんですよね。
リーグ戦があるときに警察とか消防署とかに挨拶に行くんですけど、そういうのも全部ついていきました。4年生のときは通勤定期が支給されて毎日連盟事務所に行く感じでした。連盟行ってやることは、何か仕事するわけじゃなくて、連盟にいて色々なお客さんの顔を覚える、そういう感じかな。
野球界のいろいろな人との顔つなぎをしていた、それが4年生のときでした。

―そのような生活だと授業のほうはどうされていたのですか?

3、4年はほとんど授業に行ってなかった、実習も一つもとっていないです。なので一年留年しました。でも最初からそのつもりでいたので。親にも留年するからと言っていました。4年の冬に初めて実習に行ったのかな。

当番校だと自分の都合で休めないこともあるし、授業があるから出れませんとかはできないので。フルで対応するためにはこっちが切らないといけなかった。どっちみち大学院に行きたいと思っていたので、勉強するならきっちり勉強したいと思っていました。どっちも中途半端にはしたくなかったというのもありますね。

3年秋に研究室が決まったんだけど、最初に挨拶に行ってから1年くらい全く顔出さなかったら、そこの先生に「卒論どうするの?」と言われて「留年します」と。3年のときも造林の研究室の講義はとらなくて、4年のときは一応履修登録はして、けどほとんど講義は出なかった。そんな感じですね。

―大学院に行こうと思っていたのはなぜですか?

大学に残りたい、と思っていたからですね。研究職につきたくて、大学に残るか、どこか国の研究所に行きたいなと思っていました。学部の5年のときは国家公務員の試験と、千葉県と、大学院の試験を受けました。

―野球部在学時代の思い出や印象に残っている出来事はありますか。

一番記憶に残っているのは1年生の夏の合宿かな。釜石に合宿所と球場があってそこで合宿していました。あのときの監督が小笠原さん(昭和44年卒・日比谷高)で他にOBの方も来られて、面倒見てもらっていました。2週間くらいだったんだけど、とても暑くてすごいバテた記憶が残っています。そのときは選手として行きました。その前の年も釜石で合宿して小笠原さんが監督1年目だったのかな、そのときに1年生が脱走した事件があったそうです。それよりは練習そのものは多少ゆるかったと思うんだけど、きつかったよね。昔だから水飲まずに練習やるわけじゃない。ふらふらだったよね。

―学生時代の思い出はありますか?

3、4年が授業あまり行けなかったからほとんどないよね…。五月祭も駒場祭も行ってないからね…。

学科に一緒に進んだ同期の学年とはほとんど話したことはないですね。実習にも同期とは一緒に行っていないんですよ。3年生でとる実習が多かったので2つ下の学年と実習一緒に行っていました。

進学同期と卒業同期とあとまあ実習一緒に行った仲の良い人が何人かいる感じですね。

あと、定員が多くない割に当時林学に来る野球部員って多かったんですよ。駒場で2年留年した同期とは実習が一緒だったり、一学年下にも数人いたかな。
進学同期の人とはいま年に2〜3回くらい飲み会があって、それに参加したりしています。卒業してからのほうが会う機会が多いですね。

あと、東大野球部の同期で会うよりも六大学の同期のマネージャーと会う機会が多くて、特に法政と明治のマネージャーとは年に3、4回飲みに行ったり、バスケット見に行ったり(笑)。20年前くらいから会うようになったのかな。
慶應の人がちょっと遠くにいて、立教は同期のマネージャーがいなくて、早稲田は時々参加するから、4人で会うことが多いですね。

―部長になられた経緯はどういったものでしょうか。

東京大学が法人化する前の2年間かな、総長補佐というのをやったんですよ。各学部から一人ずつ出さないといけなくて。そのときに他の学部長の方々とお付き合いする機会があって、当時の佐々木毅総長が北海道演習林に来られることがあって、研究科長や総長補佐も一緒に行ったんですよ。そのときに当時の野球部長の河野先生が新領域創成科学研究科長を兼ねていたこともあって話す機会がありまして。野球部長ということは知っていたのでご挨拶に行ったら、河野先生から後任の野球部の部長をやってくれないかと言われました。河野先生があと何年かで定年になるのと、あと部の出身者じゃないと対応が難しい面もあることもあって次やってくれないかと。それで河野先生が辞められて野球部長になった感じです。河野先生と会わなければ多分部長をやっていないと思います。

―部長時代に印象に残っている出来事はありますか。

一つは最初の当番校のとき(平成22年)に、斎藤佑樹(早大OB)が4年生でいたときだったかな、秋季リーグ戦で早慶戦終わったあとに一日挟んで早慶の優勝決定戦があって、久しぶりに神宮球場が満員になって。その試合が終わったあとに閉会式をやったのが印象に残っていますね。久しぶりに満員を見たなあと。当番校だったから満員の観客がいる中で挨拶をしたというのも印象に残っています。

もう一つは最後の当番校のとき(平成28年)にハーレムベースボールウィークでオランダに行ったりしましたね。他の大学の選手と一緒に長期間ホテル暮らしも初めてだった。球場とホテルを行き来だけだったけど、なかなかいい経験だったなあと思います。

あとは最初の当番校のときにハワイのリーグが来て六大学のオールスターと試合をやったりしました。

部長をやっているときくらいからオールスター戦が増えたりして、新潟行ったり愛媛行ったりというのも多かったね。そういうときってわりと他の部長さんとも一緒だから親しくなったり、先輩理事の方とお酒呑んだりしました。
現役の部長の飲み会が年一回くらいで開かれているんだけど、そこにOBとして呼んでもらって参加したりしています。

マネージャーの同期だとか部長の先生とかと知り合える、他大学との繋がりができるという点で、今となってはマネージャーをしたり部長をしたりしていて良かったなと思います。

―マネージャーの先輩として現役のマネージャーにメッセージをください。

一つは字が汚いかな、メンバー表とかの。他大学の当時のマネージャーってけっこうきれいだった。もう少しきれいに書いてほしいかな。

あとは人数が増えたことの大変さもあるのかなと。大学の授業とか勉強との両立はしやすくなったんだろうけど、全体が分かっている人がいないかなという気もする。それぞれが分担するのは良いけど、チーフとかがちゃんと全体をわかっていないといけないかなと思います。

―最後に農学部教授として学生たちへメッセージをください。

やっぱり自分で考える習慣をつけることかな。言われたことやるわけではなく、何か活動するにあたって自分で考えて理解して説明できる方法をとる、そういう習慣をつけることで色々工夫ができるんじゃないかなと思います。

野球部の部長をやったときも、選手に対しては「打てない」「守れない」ときにどういうふうに工夫して練習するか、そういうことを考える頭を持たないといけないということは試合が終わったあとで話したこともあった。

それはどこでも通じることで、自分がマネージャーをやったときも、まず先輩のやっていることを見て理解して、やれと言われたらすぐできるような準備をしていたんですよね。いちいち指示を受けるのではなく、見たり聞いたりして理解する、そういうような姿勢なり習慣をつけるのが大事かなと。

勉強にしても単に覚えるのではなく理解をして知識を使えるようにするとか。
マネージャーの仕事にしてもなんで今これをやっているのか、これはどのような意味があるのかを理解しながらやることが大事で、これは働く上でも同じことだなと経験的には思います。

結局失敗したりしたとしても、言われたことやって失敗しましたじゃなくて、ちゃんと自分の立場として説明できることが必要だと思います。言われたことを言われたままやるのではなく、なんでこれをやるかという理解のもとにやれば失敗しないような工夫もできる、何かあったときに対応、説明ができるので。そういう習慣を身につけてほしいと思います。

丹下 健(たんげ たけし)プロフィール

○経歴

1958年(昭和33年)  千葉県生まれ

1977年(昭和52年)  東京大学理科Ⅱ類入学

1982年(昭和57年)  東京大学農学部卒業

1985年(昭和60年)  東京大学大学院博士課程1年時に中退し、東京大学農学部附属演習林助手に

1989年(平成元年)  東京大学農学部林学科助手

1995年(平成7年) 
  東京大学農学部林学科助教授

1996年(平成8年) 
  東京大学大学院農学生命科学研究科森林科学専攻助教授

2000年(平成12年) 
  東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林教授

2005年(平成17年) 
  東京大学野球部副部長就任

2006年(平成18年) 
  東京大学大学院農学生命科学研究科森林科学専攻教授

2007年(平成19年) 
  東京大学野球部部長就任(〜平成28年)

2015年(平成27年) 
  東京大学大学院農学生命科学研究科研究科長(〜平成31年3月)

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2019年6月19日

(・年・)

100周年連載企画〜東大野球部の今昔〜


【第4回】 伊藤 仁 1978(昭和53)年卒 内野手 東海高

―東大を目指したきっかけを教えてください。


もともとは弁護士志望で京大を目指していましたが、テレビで早慶戦を見ているうちに神宮への憧れが強くなり、東大を志望するようになりました。高校時代の野球での不完全燃焼が尾を引いていたから、浪人時代も野球をやりたいと思っていましたね。

憧れの東大野球部に入って印象に残ったことはありますか。


部活の練習で忙しく、勉強する時間が少ないと感じました。あとは、大学のクラスの友人が、僕が野球を頑張っているのを応援してくれていたのが嬉しかったし、励みになっていたね。授業のノートも貸してくれたりしていたし。大学を卒業してから何年も経っている今でも彼らとの付き合いはあるよ。

当時のチームの雰囲気はどうでしたか。

僕がキャプテンを務めた4年生の時は、歴史に残るようなことを成し遂げたいと同期の皆で決めました。当時の全体練習は午後だったんだけど、それとは別に朝7時から朝練習をしようと決めて努力したね。そうやって4年生がまとまったことがすごく大きかったと思うよ。レギュラーじゃない人も朝練習に賛成してくれて、ずっと続けることができました。皆で頑張ったということが土壇場で自信になって、すごく良いことだったと思うよ。

当時の小笠原文也監督(昭和44年卒・日比谷高)は情熱家で、東大カラーを変えようと奮闘していた人だった。徹底的にミスをなくすことを目標にして、相手チームが仕掛けてきたときにいかに防ぐかを考えて、その練習をたくさんしてきた記憶があるね。

きつかった練習はありますか。

冬に駒場キャンパスのグラウンドで陸上トレーニングをしたのが印象に残っているよ。駒場の体育の先生に教わってずっと走っていたね。あとは、釜石合宿も暑くて辛かったです。

印象に残っている試合はありますか。

2年生の時の秋に、そのシーズンに優勝した明治に開幕2連勝したことがまず思い出に残っているよ。僕がベストナインを取ったシーズンでもあるし、心に残っているね。

あとは、4年生の時の開幕戦、慶應1回戦で快勝。そして2回戦でサヨナラ勝ちした試合がやっぱり思い出深いかな。

―社会人野球に進んだ際に、学生野球との違いは感じましたか。

やはり社会人野球では質の高い練習をやっていたよね。学生野球と違って下のレベルが高いから、切磋琢磨しないといけなくて。競争の激しい世界でしたね。あとは、食べ物が良かった。体がずいぶん太くなりました。

―社会人野球時代の様子について教えてください。

3番セカンドとして主に出場して、3年目でベスト4になることができたのが嬉しかったね。東大時代では野球についてよく考えていたし、周りの選手たちも同じようだったから、その経験を生かして、他の選手たちに考えとかを教えていたかな。褒めてあげると皆良く打つんだよなあ。
普段の生活リズムとしては、昼までは仕事をして午後に練習という形でした。徹底的に走った記憶がありますね。

―東大野球部の監督になった経緯をお聞かせください。

平野裕一監督(昭和53年卒・戸山高)の後任として、OBを通してお話が上がりました。僕は社会人だったので、任期が2年という決まりでした。就任当時は良い選手が多いという印象がありました。

―監督をする上でのモットーなどはありましたか。

平均身長180cmのチームを作ろうと思っていました。3番を打っていた櫻井誠(昭和61年卒・灘高)とか5番を打っていた川幡卓也(昭和61年卒・国立高)を始めとして、高身長の選手がそれなりにいましたからね。監督の2年はとても短いから、イメージを作って選手を育て上げたよ。六大学で勝てないなんて思っていなかったね。

あとは、理屈をもって説明してあげることも大切にしました。ベンチ入りを決めるときなどに不満がある選手にはきちんと理屈で説明したね。

技術面で言うと、初球の変化球を打つというノウハウを教え込んだかな。ただ口で言うだけでなく練習で実践させました。このノウハウを生かすことができた立迫浩一(昭和60年卒・県立浦和高)が首位打者を獲得したことがとても嬉しかったな。ホームランを打つ選手も多かったのもこのおかげか、とても誇りです。

―選手とのコミュニケーションはどのようでしたか。

コミュニケーションは深く取れていたんじゃないかと思っているよ。栄養をつけてあげようと、選手を結構ご飯に連れていっていたしね。社会人野球を経験している僕からしたら、選手をご飯に連れていくのは当たり前の感覚ではあったんだ。

―現在社長としてご活躍されていますが、野球部での経験が役立ったことはありますか。

監督を経験しているから、人を動かすという面では役に立っていると感じています。野球で言うところのレギュラー外の人たちも合わせて一つのチームであるということがひしひしとわかります。腐っている人がやる気になるにはどうしたら良いかを考えるようにしていますね。あとは、野球を続けていた中で顔が広くなったことも役立ったことの一つですね。

―人を動かす上で大切にしていることはありますか。

個人の全人格をよく見てあげることを心がけています。結婚している人であったらその人の家族のことも考えてあげる。個人が幸せになることが第一ですからね。今、特に若い人の中では個人よりも会社に尽くすという風潮があるかもしれないけれど、やるべき仕事をきっちりしていれば個人の幸せもきちんと考えてあげることが必要だと思っているよ。

―今の東大のチームはいかがですか。

レベルが高くて一生懸命やっているという印象を持っています。東京六大学野球は日本の野球エリートが集まっていて、隙のないチームばかりだよね。そんな相手に勝つためにはもっとレベルの高い野球をやることが必要だと思うよ。ちょっとしたことで結果は変わってくると思うから、質の高いものを体感してほしいね。チーム内でお互いにレベルの高い目で指摘しあうと良いと思うよ。

―伊藤さんにとって東大野球部とはどのようなものですか。

僕が東大野球部に入れたことは幸せなことだと思っています。東京六大学野球というレベルの高い世界で戦うことは難しいことだけれども、難しいからこそやりがいがあるからね。できることならもう一度選手として挑戦したいと思っています。

伊藤 仁(いとう ひとし)プロフィール

○経歴

1954(昭和29)  愛知県生まれ

1974(昭和49)  東京大学文科Ⅱ類入学

1978(昭和53)  新日本製鐵株式会社入社

1983(昭和58)  東大野球部監督就任

2008(平成20)  新日鐵住金ステンレス株式会社 取締役常務執行役員

2013(平成25) 
 代表取締役社長

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