選手からのメッセージ
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過去のメッセージ
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2019年8月7日
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【第9回】 須貝 謙司 2000(平成12年)年卒 内野手 湘南高
――まず初めに、高校時代の生活について教えてください。
野球ばっかりの生活でしたね。
当時の湘南高校は校舎改築工事でグラウンドが使えなくて、近隣の空き地を借りたりして練習していました。
校内にはティーバッティングや筋トレをするスペースくらいしかなかったんですが、毎朝監督の指示なしに自主的にみんなで集まって練習をしていました。グラウンドがないのに、夏神奈川県ベスト4まで行けたのは、そういった努力の成果だったと思います。
僕個人としては鎌倉の家から学校まで、片道7㎞を毎日走って通学したりしていました。
受験勉強は正直、秋の体育祭が終わるまでしていませんでした。
――東大を目指し始めたのはいつからですか。
東大を意識したのは夏の大会が終わってからです。
スター選手がいないのに、ベスト4まで進めたのがすごく面白くて。
湘南と同じような条件で野球をできるのが東大しかないと思いました。
―浪人時代はどのような生活をされていたのですか。
浪人時代はボールを一回も握っていないんじゃないかな。
予備校は御茶ノ水まで通っていました。
横浜の予備校に通うと友達がたくさんいて勉強できないと思ったからね。笑
―浪人時は順調でしたか。
振り返ってみると順調に過ごしたのかな…って感じはするけど当時はもう必死で…。笑
最初は予備校の教科書が何にも分からないレベルだったので、野球は忘れてひたすら勉強しましたね。
―リーグ戦デビューについて教えてください。
1年秋の開幕法政戦、2番サードで先発しました。
開幕2戦目で運よくタイムリーを打てましたが、そのあとヒットが出ず、17打数1安打でそのシーズンを終えました。
六大学のレベルを思い知ったシーズンになりましたね。
―2年生からは順調に試合出場を重ねたのですか。
監督が変わった2年春は調子を落とし、5打席しか出場できませんでした。
何か変わらなければまずいと思い、そのあたりから真剣に考えるようになりました。
と言うのも、六大学で野球をやるために東大に入学したのに、このままだらっと4年間終わってしまったら、浪人中の自分に申し訳ないとふと思ったんですよね。その頃から六大学でちゃんと結果を残したいという思いが強くなり、自分のプレースタイルについて考えるようになりました。
―具体的にはどのようなことを意識したのですか。
それまでバッティング練習では、とにかく遠くに飛ばして首脳陣にアピールすることばかり考えていましたが、意識改革後は例えばマシンでカーブを打つ時に、わざとストレートを待っていてタイミングを外された形をあえて作って打つようにするなど、とにかく実戦を想定して練習するようになりました。
それからミートポイントを近づけるために、バットをこぶし一つ分短く持つようにしたんですよね。これが身体を開かずに打つという結果につながり、2年秋ではまたレギュラーに定着し(レフトでしたが)、打率2割超という成績につながりました。
―そのシーズンが、六大学で結果を残せるという手ごたえを感じたシーズンだったのですね。
そうですね。振り返ればやはり、2年春から秋にかけての時間が僕にとってのターニングポイントで、試合に出られないむなしさを味わい、チームの勝利に貢献できないということが恐怖として頭をよぎるようになったんですよね。それがきっかけで練習への取り組みが変わり、そして迎えた2年秋のリーグ戦で、自分のプレースタイルの方向性を見つけることができたと思います。
そこから3年春開幕までの時間は、更に自分のプレースタイルを追求することに費やしました。自分と体格や目指すプレースタイルが似ている他大の選手や、結果を継続的に出している選手などの映像を繰り返し見て、打席での自分に合った待ち方、打ち方を研究しました。
―具体的な選手はどなたですか。
高校の先輩だった後藤健雄さん(慶大・平成10年卒)や、法政の三島裕さん(法大・平成10年卒)、東大の丸山剛志さん(平成10年卒・宮崎大宮高)、濱田睦将さん(平成10年卒・竜ケ崎一高)などの打ち方を参考にしました。
―それが3年春のベストナインという結果につながったのですね。
そのシーズンは最後まで手探りでしたけどね。前のシーズンから比べると少しバットを長く持つように変えて、それでも差し込まれないような打ち方を工夫しました。相手投手の配球を研究したりもしましたね。ストライクが欲しいカウントで何を投げているかとか。リーグ戦中はひたすら打席のことを考えていましたね。いわゆるイメージトレーニングばかりしていました。おかげで目標の一つだったホームランも打つことが出来ました。
―やはり当時は自分の中での達成感はあったのですか。
今振り返ってみれば、僕がベストナインなんて信じられないなぁと思うこともあるけど、当時は打率.351は打つべくして打ったと思っていたと思います。ベストナインまでは考えていませんでしたけど。笑
―3年秋、4年春も続けて3割越えという結果を残されました。
3年春に自分なりの方法を編み出して、完成させたので、その後はそれをしっかりと続けることで同じような成績(3年秋.308, 4年春.333)を残すことができました。4年の秋は成績を残せなかったですけど…。
―4年間を振り返って印象に残っているシーズンはありますか。
自分個人としては2秋~3春にかけて成長できたことが一番ですね。
チームとしては3年秋の早稲田に勝ち点を取ったことが最も印象に残っています。
自分たちが主力として勝ち点を獲ることができ、達成感がありました。
―印象に残っている対戦相手・ライバルと言える存在は。
ライバルなんておこがましいことは言えませんが、意識していた同期は早稲田の藤井秀悟、明治の木塚敦士ですかね。
―この人は全然打てなかったという相手はいますか。
立教の多田野数人くん(平成15年卒)は全く打てなかったです。笑
4年生の時の1年生だからデータがなかったのもありますけど…。
あとは、同期の遠藤良平(筑波大附高)と戦ってみたかった気持ちはありますね。
―学業に話題を移します。学部はどこに進学されたのですか。
工学部応用化学科に進学しました。
同期4人で同じ学部で、野球部の先輩もいたから行きやすかったというのが一番の理由です。
―卒業後の進路はどのように考えていましたか。
元々、野球をどこかで続けたいと漠然と考えていた一方で、自分のポテンシャルの限界もうすうす感じていました。野球をやめてもいいと思える何かを見つけられたらいいなという気持ちで進路を探していました。
当時部長であった河野通方先生と話した時にパイロット採用のことを聞いて、選択肢として考えるようになりました。空を飛ぶことを仕事にするって想像した時に、野球をしている時に近い『わくわく感』を感じたんですよ。
ところが当時のOB名簿を引っ張り出してみたところ、パイロットをしているOBは野球部で誰もいなかったんですよね。なので、どんな人がパイロットとして向いているか分からないまま、素のままで受けたって感じですね。
運よくパイロットに受かってからも野球を辞めるべきかひとしきり悩んで、悩んだ末によしやってみるか、という感じで就職を決めました。
―パイロットとして現役時代の経験が生きていますか。
すごく生きてます。大学時代は、神宮の『観客』にベストのパフォーマンスを見せるということを目標に練習や心の準備をしていましたが、今はそれが『乗客』に代わっているって感じです。背負うものの重さは勿論だいぶ違いますけど、自分なりに十分な準備をした上でベストなパフォーマンスを出すという点では選手時代と同じです。同じ意識で、同じことをやっていると思っています。もっと言えば、東大受験、六大学野球、仕事、全部必要なプロセスは同じだと思っています。
まずは正確な自己分析をすること、次に自分が求める理想像を設定すること、そして最後に今の自分とその理想像の差を把握しその二つをつなぐ道をつくることです。どんなに長い道のりになったとしても、理想像に近づく努力をし続けることです。どの分野においてもこのプロセスは変わりません。僕は受験と野球を通じてこのプロセスを学び、それは今にも生きています。
―現役へ向けて一言
東大野球部に在籍できる3年半という時間はとても短いです。これを意識して毎日頑張ってください。
須貝 謙司(すがい けんじ)プロフィール
○経歴
1976(昭和51)年 神奈川県鎌倉市生まれ
1996(平成8)年 東京大学理科Ⅰ類入学
1998(平成10)年 工学部応用化学科に進学
2000(平成12)年 日本航空に入社
2004(平成16)年 ボーイング767型機副操縦士に就任
2019(平成31)年 ボーイング767型機機長に就任
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2019年7月31日
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【第8回】 石田 和之 1995(平成7年)年卒 内野手 菊里高
―東大を目指したきっかけを教えてください。
もともと高校野球の先のことを考えていませんでしたが、当時高校の先輩で京都大学と横浜国立大学の野球部に行っていた方が練習に来ることがあり、大学野球を意識するようになりました。横浜国立大学行っていた方から大学で野球やるなら慶應がいいんじゃないかと聞いて、高校2年の冬に東京に来る機会があったときに慶應と、参考までに東大のグラウンドに行ってみました。高3の夏に慶應が主催している練習会に参加したのですが、全国から5、60人高校生が来て、なかなかの実力者が揃っているし、僕の実力だと厳しいかな、と。そこで東大を本気で考えるようになりました。
当時は70連敗の時代で、そういう話題で多少メディアにも出ていたので、自分が入部して強くしたいなという思いもありました。
――1年生の秋季リーグ戦で初出場を果たしますが、その時のことは覚えていらっしゃいますか。
夏のオープン戦も出させてもらって、体が華奢でヒットは打てていませんでしたが、守備は評価されていていたかなと思います。
秋のリーグ戦はベンチには入れると思ったけれど、開幕戦がスタメンで、「え、そうなの?」と思い緊張感もありましたが、嬉しかったし楽しかったですね。最初の3試合はスタメンで使ってもらえて、その後は先輩の方が調子が上がってきたので途中から出場、という感じでしたが、守備は問題なく出来ていたかなと思います。同期ではセンターの濤岡(県立千葉高)とサードの片山(横浜翠嵐高)と3人スタメンで使ってくれて。平野さん(昭和53年卒・戸山高)が監督就任1年目ということで新しい戦力を使ってくれたのではないかと思います。
――2年生からはレギュラーに定着しました。
2年生の時は全試合出ましたが、春も3本くらいしかヒットを打てていないし、打率は年間で1割5分くらいかな。守備はそれなりに出来たけれどバッティングは通用せず、代打を出されたりしました。秋のリーグ戦の最後の方は1つ下の学年に内野手が何人かいたので、最初に下の学年がスタメンで出て、代打を出して、さらに代打を出して、その後最後の守備に僕が、ということも多く、やはり守備は評価されていたのかなと思います。
――3年生の春のリーグ戦ではベストナインを獲得されました。
3年生になったときに、去年全然戦力になれていない、勝ちに貢献できていないと思いました。守りができても役に立たないという思いがあったので、試合に出たいけれど、ただ守りで出るのではなく、打てないとだめだなと思うようになったんですよね。
開幕の10日前くらいに大沼さん(昭和49年卒・仙台一高)が指導で来てくださった時にやった練習が少し変わっていて、自分ではやってみて違和感があるけれど割と良い打球が飛んだりして、何か掴んだような感じがしました。それで開幕を迎え、開幕2試合では1本しか打てませんでしたが、次の週に4本ヒットが打てて、大沼さんに言われたことがなんとなくできるようになってきたのと、それまで出場経験もあるので段々と対応もできるようになっているのを感じました。
あとは2年生の秋の新人戦でひどい捻挫をして、冬は体づくりをしなければと思い、初めてスポーツマッサージに行ったときに「君の体は野球をやる身体ではない、硬すぎだ。」と言われて。それでトレーニングやストレッチをして、体つきが良くなってきたりしたのもあります。
2年生までの打席経験、体が出来てきたことと、大沼さんからアドバイスをもらったことで打てるようになってきて4カード終了時点で安打数は10本くらいでした。それまでは下位打線だったのが上位打線も打たせてもらえるようになって、打てるようになったのを実感しましたね。最後の立教戦の試合は4試合行ったのですが、3安打しか打てず打率を下げてしまって。立教のエースの川村(平成7年卒)投手に対してあまり相性が良くなかったんですよね。
リーグ戦が終わって、当時は学生コーチもいないし、助監督もいない年だったので、指導者志向ということもあり新人戦の指揮を執ることになりました。なので新人戦の練習をしていて、閉会式に行っていないんですよ。それで連絡が来てベストナインだ、と。周りもえっ、という感じだし、自分も驚きました。
ベストナインを獲れた理由としては、他大学のセカンドがあまり固定されていなかったこと、他のセカンドの成績が良くなかったことが大きいです。
――また、秋には40年ぶりの勝ち点を挙げました。
法政はその春に引き分けていて、割とやりやすい感じはありました。秋は初戦は負けたけれど2戦目3戦目はロースコアで勝てたんですよね。その時代勝てていた要因として、高橋(平成8年卒・北野高)という1つ下のピッチャーの存在が大きかったですね。高橋は勝っている試合で出てきて逆転されることがないピッチャーでした。勝ち点を挙げたその2試合も、高橋が最後の3回ぐらいを抑えてくれました。
―勝ち点獲得直後のチームの雰囲気はいかがでしたか。
お祭り騒ぎのような感じでしたね。当時は神宮球場へ行くのにバスが出ていて、車内ではしゃいでいる写真が新聞に載ったりしました。そのあとから取材が増えて、TBSが追いかけてくれたりしました。次の早稲田戦の2戦目は試合自体は負けましたが、僕が初めてホームランを打てて、それをTBSで全国に流してもらったりしました。それは嬉しかったですね。
―4年生の春のリーグ戦では惜しくも単独5位とはなりませんでした。チームの皆さんはどのように感じていらっしゃいましたか。
僕らの世代は結構期待されていたように思います。濤岡は全日本代表の候補になったり、東大の三塁打記録、盗塁記録を持っているすごい選手でしたし、同期のキャッチャーの北村(金沢泉丘高)も良い選手で当時の高校野球の雑誌をみると石川県のナンバーワンの打者って書いてあったくらいセンスがありました。サードの片山も体格が良くてパワーは抜群。
下の学年にも高橋に加えて首位打者を獲った間宮(平成8年卒・横浜翠嵐高)や、小原(平成9年卒・県立千葉高)がいたので、もっといけるだろうという実感はありました。
そのシーズンは4つ勝って、4つ1点差で負けて、そのうち2つは9回で逆転されて。もっと勝てたな、と今でも思いますが、そのことを後に平野さんに話したら勝てそうな試合が8回あって、その中の半分勝てたのはいい方なんじゃないかな、と言われました。これが春のリーグ戦です。
秋は、勝ち点を挙げた最終カードの立教戦で1戦目は負けましたが、2戦目で尾崎(平成7年卒・海城高)が完封勝ち、3戦目も濤岡が先頭打者ホームラン打ったりして12-1で勝ちました。その試合、僕は1イニングで2回アウトになったりと5打席ノーヒットだったんですけどね。自分が打って勝てた試合はそれほどなくて、みんなに勝たせてもらった感じでした。
―同期の方にはライバル意識を感じていましたか?
僕が打つとみんながっかりするんですよ。ホームランになりそうな当たりが風で押し戻されてフライアウトになった時に、僕がベンチに帰ってくるとみんな喜んでて、「やられたと思ったよー」と笑われたりしました。ある意味チームとして余裕があったのかなとも思います。打ってくれ!という雰囲気ではありませんでしたね。
―大学時代の私生活はどうでしたか。
勉強はしていなかったですね。語学と体育は比較的授業に行っていたけれど、他は行かなくても大丈夫だからと先輩に言われて真に受けて行っていませんでしたね。追試も受けました。野球以外に興味の持てる分野もなかったので教育学部の身体教育学科(当時は体育学健康教育学科)に進学しました。3年生からキャンパスが本郷になるからといって授業に必ずしも出席していたわけではありませんでしたが、学科の先生は理解してくれたし、単位はもらえていました。
寮の印象は、1年生で初めて練習に参加した日に着替えに行った際、ここに本当に人が住んでいるのかなと思うほどでしたが、結局3年間住み、違和感無くやっていけるものだな、と思いましたね。自由時間には誰かの部屋に集まって、何をするでもなく漫画を読んだり、ゲームをしたり、ドラマを観たり、などしていました。
―当時の練習はどのような感じでしたか。
全体の練習はそれほど長くないんですよ。バッティング練習が中心で、守備の練習はそれほどしませんでした。レギュラークラスがバッティングをして、その後に他の人がバッティングをして終わりという感じだったと思います。平野さんは守備練習については時間を取らないから、バッティング練習中に守ればいいという方針でした。僕はバッティング中の守備練習が好きでしたね。シーズン中はシートノックすらほとんどやらなくて、とにかく打たなきゃしょうがないという感じでしたね。全体練習後に自主的にトレーニングしたり、結果的には夜までやっていました。
―卒部後5年間助監督を務められました。きっかけはなんだったのでしょうか。
東大野球部以降の生活を何も考えていない中、周りは就職活動をしていて、焦るというよりはみんなが大人になってしまうようで寂しさを感じました。とはいえ野球にはずっと携わりたかったので、平野さんにも大学に残ったらどうだと言われ、大学院に進学しました。当時は助監督は大学院生がというのが既定路線で、僕もその流れで助監督をやりました。学問がしたくてというよりは野球をやる道を探して大学院に入ったという感じですね。
―就職先はどうやって決めましたか。
国立スポーツ科学センターが2001年に発足した時に、若手研究員をたくさん採用してくれるということで、僕も学問を突き詰めるというよりはスポーツに携わることがしたかったので応募しました。一流選手が国際大会に行く前に必ず体力テストや検査をする機関で、その測定の担当をしました。シンクロの大会に行って水中カメラで演技の様子を撮影したり、それまであまり触れていなかった生理学の実験を手伝ったりしながら、色々な競技の人を見られたのは面白かったです。
―次に読売巨人軍に就職したきっかけはなんだったのでしょうか。
僕が大学院生の時に平野さんのところに、ジャイアンツの方が選手のコンディショニングについて相談に来たんですね。何も資料がないと分からないので、定期的に簡単にできるパワーテストをやって、シーズン中の疲労でパフォーマンスが落ちるかなど確認しようという話になりました。選手を対象にした月1回のパワーテストの資料のまとめを僕がやっていました。その後、国立スポーツ科学センター所属中もそれを続けていて、3年の契約期限が切れる際にジャイアンツで正式に働くことになりました。
その後、その方が人材交流で数ヶ月キューバに行った時に、人口が少なくても競技力を保っているのはどこへ行っても同じように子どものころからマニュアル通りに指導して、その情報が集まってナショナルチームができていることを見てきました。
同時期にFC東京の話も聞いて、Jリーグはユースチームや小学生、幼児向けのスクールを作っていて、普及、育成に努めている一方、野球にはそのような組織が無く、サッカーに人が流れていってしまうのではないかという話になりました。少年野球はチームも誰かのお父さんが指導していたりして、しっかりとした指導を受けられていないケースもあるし、このままではまずいねと。あとは、公共のグラウンドで有料の講座を開くことが認められてきたり、と色々なことが合わさって、まずは都内2か所で子ども向けの野球のスクールをやってみよう、となりました。元々のコンセプトは一流の経験を持った人しか教えられないのではなく、誰でも教えられるように内容をシンプルにする。1つずつ段階を作って、幼稚園児はこれくらい、低学年はこれくらいできればいいというような基準を作るというものでした。やっていく中で形は少しずつ変わりましたが、コンセプトは変わっていません。
実は大学院時代のテーマが子どもの動作の発達過程ということもあり、子どもがいかに上手くなっていくかとか、どの年齢でどれくらいできるようになるのか、に興味があったので、この事業に携われたのはありがたかったですね。
―仕事で印象に残っていること、やりがいはなんでしょうか。
スクールの生徒たちが楽しそうにしてくれていたり、親御さんに感謝してもらえたりすることですね。あと、場所によっては人数が多すぎて定員オーバーでキャンセル待ちの場合もあるのですが、空きが出て電話をして「次は入れますよ。」と伝えた時に喜んでくれると嬉しいですね。あとは、グラウンドを貸してくれる役所の方も含め、どこへ行ってもやっている活動は前向きに評価してもらえる、認めてもらえていることもありがたいことだなと思います。
―石田さんにとって東大野球部はどのような存在でしょうか。
もともと東京を目指す意識は無くて、野球を続けていてこのまま終わりたくないと思っていたところ、東大に出会いました。そして、運良く入れて、入ってみたらすごく楽しくて、そこから抜けられなくなって9年間。色々な出会いがあって、東大に来たことで今の生活もありますし、人生はそこで変わりましたね。
あとは、チャンスをくれた場所ですよね。無名高校の無名選手だった自分に神宮のグラウンドに立つチャンスをくれた場所です。野球で選抜されてこなかった人にとっての最後のチャンスだと思うんです、東大野球部は。僕にとってはそういう位置付けですね。
―最後に、現役世代へのメッセージをお願いします。
野球についてはみんな一生懸命やっていると思うので、心配する必要はないですけど。
進路についてもたぶん考えていると思います。僕みたいにただ野球が好きで生きてるだけではちょっとまずいね、という感じですかね。
あとは、学生時代に他の経験がもっとできたんじゃないかなって思っていて。せっかくの学生時代なので野球に熱中するのも良いですけど、それ以外の時間がないわけではないから、他のこともやってみるべきではないかなと思います。
石田 和之(いしだ かずゆき)プロフィール
○経歴
1972年 愛知県名古屋市生まれ
1991年 東京大学理科Ⅱ類入学
1995年 東京大学大学院教育学研究科進学
1995年 東大野球部助監督就任(〜1999年)
2001年 国立スポーツ科学センター
2004年 読売巨人軍
2006年よりジャイアンツアカデミーに携わる
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2019年7月17日
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【第7回】 階 猛 1991(平成3年)年卒 投手 盛岡一高
―東大に入学された経緯を教えてください。
私は岩手県立盛岡第一高校に通っていましたが、当時は東京大学をあまり意識していませんでした。きっかけは模試の成績で、当時の模試の成績がたまたま良くて、そこから意識し始めました。ずっと地方で育ってきたので東京で一人暮らしをしたいというあこがれがあり、東京の大学に進学するからには、東大に入りたいという思いもありました。結果的に現役合格することができず、浪人してからは御茶ノ水にある予備校に通い、二浪してやっと入学することができました。決して裕福ではない家庭でしたが、自分のやりたいことを最後までやらせてくれた今は亡き両親に心から感謝しています。
――東大野球部に入部されたきっかけについて教えてください。
一浪で合格を決めることができずに途方に暮れていた時に、春の東京六大学野球を見に行ったのがきっかけでした。当時は何も把握していなくて、東大野球部は弱いものと思っていたのですが、実際に六大学のリーグ戦を目の当たりにしてみると、東大が一方的にやられているどころかほぼ互角に渡り合えていて、とても感銘を受けました。注目度もあり、他の五大学とも明治神宮球場で渡り合える。そこで自分も野球をしてみたいと思い、東大野球部に入部したいと決心しました。
――東大野球部に入ってからはどうでしたか。
朝、部員が集まって練習して、夕方練習が終わったらアルバイトするなど。そんな毎日が続きましたね。他の大学生と比べれば、自分たちはほとんど遊んでなかったですね。
野球に対する考え方も色々あると気づかされました。東大野球部には全国各地から様々な人が集まってくるため、野球との関わり方も様々でした。多様な考え方ができるようになったというのもいい経験になりました。一方で、野球に人生を賭けている他大学の選手のプレーやそこに至るまでの努力する姿に感銘を受けました。
――投手として一番印象に残っている試合はどの試合でしょうか。
自分が先発投手として出場した大学2年生の春の明治大学との一戦です。大学1年生の時の秋の開幕戦で慶應義塾大学に勝利し、それ以降通算200勝に王手がかかっていました。両者譲らずに中盤まで0対0のロースコアゲームが続き、ついに7回表に石井さん(平成2年卒・県立千葉高)のタイムリーで先制しました。しかし、7回裏、2アウトから2ランホームランを打たれてしまいました。ホームランを打たれた前の投球が際どいボールで、個人的にはストライクで三振だと思いました、審判のコールはボールでした。そのボールより少し内側に入れようと思って投じた球が失投となり、ホームランを打たれてしまいました。結果的にはその2ランホームランが決勝点となり、1対2で敗れてしまいました。この試合で勝っていれば大型連敗することがないような気がして、大変悔しい思いが残る試合でした。
――その後、野手に転向しました。
大学2年生の冬の時、球威をあげようとフォーム改造に着手しました。しかし、新しいフォームが自分にしっくりこなく、球威が上がるどころか肩を故障してしまいました。大学野球で投手として活躍することが不可能になり、3年生の夏から半年間休部しました。故障直後は野球部から退部しようと考えていました。しかし、チームは連敗が続いていて、選手はなんとかして連敗を止めようと必死に頑張っているのを受け、自分も少しでも力になりたいと思い、3年生の冬に復帰しました。その後は野手として練習に参加し、4年生の時には、自分が打てば同点というチャンスに、代打で何度か出場させてもらいましたが、結果を出すことができず、無念でした。
―卒業後の進路を教えてください。
卒業後は日本長期信用銀行に勤務しました。当時はバブルの絶頂期であったため、就職活動に困ることはあまりありませんでした。長銀にどうしても行きたいから入ったというわけではなく、成り行きで入行した感じも少しありました。また、会社の中で自分の意見を主張していくには相応の能力を持っていないといけないと思い、長銀に勤務しつつ司法試験の勉強も始めました。しかし、当時の合格率は2, 3%に過ぎず、何度も落ちました。
バブルが崩壊した後、長銀も経営破綻し新生銀行となり、その後も勤務しながら勉強も続けて、なんとか司法試験に合格して社内弁護士になりました。働きながら司法試験に合格できたのは、高校、大学で「文武両道」を実践してきたからだと思います。
―その後、衆議院議員になられました。
きっかけは、高校と大学の先輩にあたり、当時岩手1区から選出されていた衆議院議員で岩手県知事に転身された方から打診を受けたことでした。東大に入学してからは故郷である岩手を離れて活動していて、これを機に故郷に恩返しをすることができると思ったため、立候補を決断しました。
衆議院議員として活動するようになり、大勢の人の前に立って演説することが多くなりました。自分の意見とは反対の立場の人も説得しなければならなかったり、自分の考えた通りに物事を運ぶことができなかったりすることも多々あります。その中でも自分の信念を曲げずに正しいと思う道を進めようと行動できているのは、やはり大学の4年間、東大野球部で連敗を何としても止めようと日々練習してきたことで培った逆境に耐える精神のおかげだと思っています。これは、衆議院議員としての活動に限らず、司法試験勉強などの様々な活動にも役に立ったと思っています。
―今までの人生の中で、現役時代はどのようなものですか。
お世辞にも華やかな4年間だったとは言い難いですが、野球に打ち込む環境が整っていて非常にやりがいのあった4年間だったと思います。結果的に在籍期間の間は1勝しかできませんでしたが、結果が出なくてもあきらめずに努力し続けたことは何にも代えがたい非常に有意義な経験だったと思っています。
―最後にチームに向けてメッセージをお願いします。
簡単なことではないのは分かりますが、まずはどんな形でも1回でいいので勝ってほしいですね。負けが続いてしまうと精神的にどうしても良い方向へ向かうことが難しく、一時的にリードしても相手に反撃され始めたら気持ちがどうしても萎縮してしまいます。勝ちを経験することで自信につながり、精神的にも強くなれると思います。
今年の春のリーグ戦は序盤で点を取られて一方的な試合展開になることが多かったのですが、後半の方は接戦に持ち込んだ試合展開が多くあったので実力差はそれほどないと思います。食事管理とトレーニングによって自分たちの頃よりも断然良い体格の選手がほとんどですし、年々強くなっていると感じます。なんとか序盤で食らいついて接戦に持ち込み、相手のペースを崩して自分たちのペースに持ち込むことが大切なのかなと思います。険しい道のりだと思いますが頑張ってほしいです。
階 猛(しな たけし)プロフィール
○経歴
昭和41年10月 岩手県盛岡市生まれ
昭和62年4月 東京大学文科I類に入学
平成3年3月 東京大学法学部を卒業、日本長期信用銀行に入行
平成10年10月 同行破綻し、政府により国有化されるもそのまま在籍
平成15年年11月 司法修習(第56期)を経て、新生銀行社内弁護士になる
平成19年1月 みずほ証券に転ずる
平成19年7月 衆議院議員補欠選挙に岩手1区から立候補、初当選
平成21年8月 衆議院議員総選挙で再選、総務大臣政務官となる
平成24年12月 衆議院議員総選挙で三選
平成26年12月 衆議院議員総選挙で四選
平成27年1月 民主党「次の内閣」ネクスト内閣府特命大臣に就任
平成28年9月 民進党政務調査会長代理に就任
平成29年9月 民進党政務調査会長に就任
平成29年10月 衆議院議員総選挙で五選
平成30年5月 国民民主党に参加し、政務調査会長代行に就任
令和元年5月 国民民主党を離党
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【第6回】 大越 健介 1985(昭和60)年卒 投手 新潟高
―東大に入学された経緯を教えてください。
高校2年生の夏の大会でキャッチャーとしてベスト4になって、チーム事情でピッチャーとなった高校3年生の夏はベスト8まで行きました。夏の大会が終わった直後は、もうこれで野球は終わりだと思ったんだけど、一晩寝たら翌日からまたやりたくなったんです。東大以外の五大学はやはり野球エリートだけが行くところっていう認識があって、新潟の普通の公立高校から自分が行けるとは思わなかった。逆に言えば東大以外選択肢がなかったって感じかな(笑)。自分は野球しかやってきてないから、これから勉強すれば伸びるだろうという根拠のない自信もあった。現役ではとても追いつかなかったけど、1年間御茶ノ水で予備校に通いながら浪人して、無事合格できました。浪人中から練習も見学に行っていたので、早くここに入りたいなと思っていましたね。
――サイドスローを始めたきっかけについて教えてください。
高校3年生でピッチャーをやっていた時はきれいなオーバースローでした。それから大学に入ったときは自分の体の小ささも考えて、実は内野手をやりたかったんです。3万円もするゼットのセカンド用のグローブを買ってアピールしたけど、素性がバレて1年生の夏からはピッチャーとして合宿に帯同した。ピッチャーをやる運命にあるとわかった時、自分のオーバースローの綺麗なボールでは、他の五大学に打ち崩されるだろうなという感覚がありました。だから1年夏のオープン戦の中で少しずつ腕をスリークォーターまで下げていった。1年秋を経てアンダースローと言うよりもこのときはサイドスローかな。サイドスローは無理なく投げれられたので、感触を掴んで2年の春から先発させてもらいました。
――入部当初の野球部の印象はどのようなものがありますか。
僕らの代は鮮烈な印象があります。武道館の入学式を終えて、新人部員は神宮球場のスタンドで観戦したんだけど、その時が初戦でなんと法政に3-1で勝ったんです。「赤門旋風」って言われた年なんだけど。やっぱり雛鳥が最初に見たものを親鳥だと思うのと同じように、当時1年生で雛鳥だった僕らは、初めて見た先輩たちが当然のように法政に勝つ。雛鳥とすれば、自分たちも当然勝てるチームにいるんだという意識を保つことができた、それがすごく印象的で後々大きかった。その時のシーズンは6勝7敗で、途中まで優勝するんじゃないかって言われてた。立教の4連戦で負けて優勝の夢は断たれるんだけど、エース大山さん(昭和57年卒・学芸大附属高)、キャプテン大久保さん(昭和57年卒・湘南高)っていうメンバーで、その4年生を見ていて、東大野球部って決して負け続けるところじゃない、頑張れば勝てるっていうある種のマインドセットができたことが東大野球部の4年間の中で本当に大きかったと思います。
――4年生の先輩が引退された後について教えてください。
同期は盛岡一高の八重樫とか、1つ下には国立高校で甲子園球児の市川、2つ下には浜田(現監督、昭和62年卒・土佐高)と各地から良い選手が来ていた。もちろん力は他大学よりも相対的に劣ったけども、心理的にゲーム運びで優位に立てれば十分勝つことは可能だっていう、自信というよりは思考があったよね。勝つことがそれほど大きな壁じゃなかった。だから年間9勝した4年生が抜けた後も、もちろん戦力的には落ちたんだけどどっかで勝つんじゃないかなっていうのは思ってたし、実際に2年の秋には初勝利をあげてるし、だからやっぱりその先輩たちの影響が大きかったです。
――大学日本代表に選出された時のことについて教えてください。
あれは3年の春のこと。僕は1年の春から脱臼癖があったんですよ。内野手志望で張り切りすぎて、ノックを受けて飛び込んだ時に左肩を脱臼しちゃった。それが1年の春からずっと続いていて、いつも脱臼との戦いではあった。それで3年の春も脱臼をやってしまって、初戦の慶應戦かな、三塁打を打って滑り込んだ時に結構深刻な脱臼で、救急車で運ばれました。でもそこから逆に手負いの虎じゃないけど、自分の中でスイッチが入って、テーピングでぐるぐる巻きにした上で1週間で実戦復帰しました。そうしたら早稲田に連勝して、法政には負けたんだけど、7回2アウトまで1安打みたいな良い投球ができました。それがまあ投げ方のきっぷがいいってことでおそらくセレクションで選んでもらったのかな。あとは当時まだアメリカの選手たちっていうのは、サイドハンド、アンダーハンドに慣れてない、つまりその方が通用するっていう考え方があって、本格派でないサイドハンドのピッチャーとして選ばれたんだと思いますけどね。
―最終シーズンはいかがでしたか。
秋は本当に良い試合ばっかりで負けていました。競った試合だったんですよ、みんな。春の戦いぶりからしても、うまくいけば俺たち結構いけるんじゃないかっていう気持ちをずっと持っていた。だけど、モノにできそうな試合を落とす、少なくともカードで1勝2敗には持っていけそうな中で勝てないっていう、じりじりとした苦しい展開で8連敗。最後はもう開き直って行こうよっていうので立教には勝って、2戦目は落としたけど3戦目で勝ちました。最終シーズンは自分たちが持っている力を出し切れなかったという悔いの中で、最後のカードでなんとか勝ち点を挙げて終われたっていうのだけは救いでした。
―卒業後の進路としてNHKを選んだ理由を教えてください。
大学の3、4年、特に4年で自分の投球はこれで限界だなって思いました。体も小さいし、サイドスローでシュートピッチャーだったから肘も結構酷使してて。試合になればアドレナリンが出て投げられるんだけど。これで野球はたとえ肘が壊れてもいいので終わりにするっていうつもりでやっていました。マスコミに入りたいっていうことを考えたっていうより、社会人野球からのお誘いに応じられないなっていう自分の野球の限界を感じていたので、そこからじゃあどうするかって考えました。元々関心のあったメディアっていう仕事は、当時は今と違って、4年の11月一発勝負みたいな感じだった。それまで問題集で勉強をして、まあ失敗したら留年すればいいや、受からなかったら受からなかったでしょうがないっていう気持ちでNHK一本に絞って受けて、結果的に入ることができました。
―NHK入局後はいかがでしたか。
NHKの記者の場合は、入社後全国に一斉に散らばるんです。僕は岡山が初任地なんですけど、岡山で4年間を過ごして、その後で政治部に誘われました。政治取材って、その時のキーパーソンの懐にいかに飛び込むかが勝負。情報の真相をどう取るか、特ダネ競争もそうだけど、特ダネを抜かないまでも間違った方向のニュースを出さない。NHKのニュースは絶対に間違っていないという世間での常識を維持し続けないといけない訳だからまあ忙しかった、責任も大きかったし。自分にとって運が良かったのは、取材をする中で魅力的な政治家に何人も出会って、その人が考えている魅力的なこの国の姿であるとか今起きている問題への対処の仕方であるとかに触れられたこと。政治家っていうと悪代官みたいなイメージがあるけど、中には高い志を持ってやっている人も多いわけで、そうした志に触れて、今起きていることの本質は何かってことを自分なりに探求したこと、いくつかの政権交代の渦中で取材の一線を張り続けることができたっていうのは自分の中で非常に大きかったですね。世の中というもの、政治というものを知る上でも。
―記者になられてから野球部での経験が役に立ったことはありますか。
無かった(笑)。当時は本当に忙しくて、申し訳ないけど六大学もほとんど見る余裕がなかった。やっぱり体力的には「お前野球やってたから強いよね」って言われることが多かったっていうぐらいかな(笑)。
―キャスターになられた経緯を教えてください。
政治部に16年いて、与党キャップまでやって、ある程度現場ではやり尽くしたところまで行っていたので、この後は渋谷でのデスク業務に上がるのかなって思っていました。ところが急遽ワシントン支局を4年間担当することになった。最初はなんで自分がワシントンって思ったんだけど、当時オバマ大統領を生み出す歴史的な選挙を取材できたっていうのはすごく大きなことでした。国内の政治は16年間身に染みてわかっていたけど、一方でワシントンを舞台とする国際政治、それからアメリカ社会を学べたっていうのは結果的にものすごく良かった。将来いずれキャスターにという考えが上層部にあって、そういうことを経験させてくれたんだと思います。日本に戻ってきてから「ニュースウオッチ9」のキャスターになりました。
―キャスター時代には野球部での経験が役に立ちましたか。
キャスターはやっぱり文字通りニュースをキャストする仕事。ニュースって生き物なので、その日のニュースをどう捌くかっていうのがニュース番組で、アナウンサーでなく記者出身の人間がキャスターをやるっていうのが意味があると思う。もちろん自分一人でやるわけじゃないけど、これはこう出して伝えようだとか、あれはオーダーとしては前に持ってこようだとか、ここではこういうことを語れるんじゃないかとか。ジャーナルを目指すっていう志のもとで、ニュースを配置していく、そのニュースに対して自分の言葉でコメントをつける。それはある程度の経験を積んで、ある程度の度胸があって、という人間がやる仕事。まあピッチャーをやったおかげで度胸だけはあるから、キャスターをやっている時っていうのは野球部でのピッチャー経験は大きかったと思います。更に言えばピッチャーってその空間を支配するんです。単調になって打たれるのもピッチャーの責任だし、逆に空気を変えてうまい具合に相手の気をそらすことや、調子のいい時にはテンポアップして攻めていくこともできる。ゲームを支配するのはピッチャーだと自分は考えています。それってニュースキャスターのスタジオ運営も共通で、自分が喋らないと始まらない、ピッチャーも自分が投げなければ始まらない。それで観客もベンチもバックもバッターも、みんながピッチャーを見ているわけだけど、それはキャスターも同じ。キャスターをやってる時にはピッチャー経験っていうのが本当に活きたなと思います。
―サンデースポーツのキャスターになられた経緯を教えてください。
「ニュースウオッチ9」のキャスターが終わって3年間世界放浪をしました。世界を見に行って自分で取材、リポートをして番組を作るっていうのをやっていたんだけど。途中からスポーツだとか政治だとか経済だとか社会だとか、ジャンル分けってそもそも意味があるのかなって思い始めて。人間の営みを取材する仕事っていうのは、それを正確に掴んでより深く掘り下げた上で世の中に伝えるっていう仕事は、正直言って便宜的にスポーツだ、政治だって区切っても区切らなくても同じだと思いました。だからスポーツをやるってことに違和感はあまりなかったというか、スポーツを通じてやっぱり人間の営みを伝える訳だから、ジャンルは逆になんでも良かった。でもNHKの放送を通じて自分が一番力を発揮できることは、自分で取材をして自分の言葉で伝えるという、記者でありキャスターであることが一番いいと思ったのは事実です。しかも2020年に東京オリンピックパラリンピックっていう社会変革が来る。それに向けて世の中を単に盛り上げるんじゃなくて、せっかくのこのチャンスを後世にとってより良い社会にしていくきっかけにしたいと思いました。最近だとスポーツを通じて見えてくる社会の矛盾、古い日本の体質っていうのが一気にあぶり出されてきて、それはやっぱりある種のオリンピックのレガシーだと思うんですだよね、もうすでに。単にスポーツを取材してるんじゃなくて、社会現象を取材しているのだと思います。スポーツを通して我々人間の営みを、良きにつけ悪しきにつけ見ることができるっていうのが今の一番の面白さで、そういった意味で入口はなんでも良かったんですよ。
―現役の投手陣に向けてメッセージをお願いします。
先ほどの話と重なるんだけど、場を支配して欲しいと思います。東大の投手陣も臆することなく、飄々とその空間を支配して欲しい、それでその自分の空間の中に相手を引きずり込むような投球をしてほしいですね。多少球威なんて無くたって抑え込める。今この歳になってようやくわかったことなんだけど、空間を支配することが大事なんだと本当に思います。
―32連敗中のチームにメッセージをお願いします。
勝つ味を知らないと次の勝ち方もわからないものですよね。勝つのは大変なことではあるけれども後輩につなげるためにも、どんな手を使ってもいいからとにかく1回勝って早く勝ちの味を知ってほしい。勝ちっていうのはこういうことなんだっていうのは、プレーしている選手のみならず後輩にも必ず繋がっていくので。戦力的にそんなに楽じゃないのもわかっているけど、この前の坂口くんみたいに明治大学相手にあそこまでやれるケースもあるわけだから、勝つ味をぜひ覚えていただいて。東大が勝つパターンっていうのはどういう時なのかを、今のチームカラーに応じて、このチームの勝ち方ってどういうことなんだろうってことを突き詰めてほしいなと思います。
―最後に現役部員に向けてメッセージをお願いします。
アスリートになってほしい。東大野球部員っていうよりは、チームの勝利のため、ひたすら自分に対して真摯な姿勢で最大のパフォーマンスを発揮できるようなアスリートを目指してほしい。それは将来のためになるからなどではなく、今を完全燃焼するためにすごく大事だから。今自分は明確な希望がないとか、生きる指針がないとか、将来が不安だとか、気持ちはわかるけどもそんなのは当たり前なので、今その一瞬一瞬を完全燃焼する、どうせ悔いは残るけれども、できる限り完全燃焼するっていうのを目指してほしい。東大の野球部っていう恵まれた環境で、神宮を舞台に野球をやれるっていうのは選ばれた人たちなんだから、選ばれた人たちの責任として自分なりのアスリート像を在学の4年間で見つけてほしいと思います。どうせいつかは考えざるを得ないんだから、せめて野球をやっている間は、野球部員をやってる間はあんまり先のことは考えなくていいと思います。
大越 健介(おおこし けんすけ)プロフィール
○経歴
1961年(昭和36年) 新潟県生まれ
1985年(昭和60年) 東京大学文学部国文学科を卒業後、NHKに入局
2005年(平成17年) ワシントン支局特派員に就任
2007年(平成19年) 同支局長に就任
2010年(平成22年) 「ニュースウオッチ9」のキャスターに就任
2018年(平成30年)
「サンデースポーツ2020」のキャスターに就任
2021年(令和3年)
NHKを定年退職、 テレビ朝日「報道ステーション」のメインキャスターに就任
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2019年7月14日
(・年・)
【第5回】 丹下 健 1981(昭和56)年卒 マネージャー 県立千葉高
―東大に入学された動機を教えてください。
野球をやりたいというのが一つと、もう一つは私の父親が東大の教員、千葉県にある東大の演習林の助手をやっていたんですよ。というのもあってわりと東大が身近ではあったというか。そんな感じですかね(笑)。
高校のときくらいに進路を考えて、そのときに林学をやろうかなと思って。林学というものも知っていたし、今の造林学研究室があることも知っていました。まあ家庭環境がそうだったからね。生物学をやりたいと思っていたのと、あまり遺伝子とか細かいことより植物を対象にしよう、個体レベル以上をやりたいなと思っていて、それで林学、造林学を選んだ感じです。
――入学前から東大野球部に入ろうとは思っていたのですか?
入ろうと思っていましたね。中学まで野球やっていたんですけど、高校時代は野球をやっていなくて。大学に入って、野球部に入れてくれと野球場に直接言いに行きました。
――高校のときに野球をやっていなかったのはなぜですか?
中学から高校を受験するときに、東京学芸大学附属高校と県立千葉高校の二つを受けて、学芸大附属に受かるぐらいだったら野球をやろうかなと思っていたんですけど受からなくて(笑)。まあ千葉高だったのでとりあえず勉強するかーと。野球部はあったけど入らずにひたすら勉強していました。
当時の小笠原文也監督(昭和44年卒・日比谷高)は情熱家で、東大カラーを変えようと奮闘していた人だった。徹底的にミスをなくすことを目標にして、相手チームが仕掛けてきたときにいかに防ぐかを考えて、その練習をたくさんしてきた記憶があるね。
――東大野球部に入ってからはどうでしたか?
一年間選手(外野手)をしていて、新人戦で春と秋に代打で1回ずつ打席に立って、春はちょっとだけライトを守りました。ちなみに春秋どっちも三振して終わりました(笑)。それからマネージャーをやることになって。マネージャーは誰かやらないといけなくて、一つ上のマネージャーの人からやれって言われたのかな。
――ご指名だったんですね。
断ったら野球部やめるかどうかという話ですからね。
最初の練習会から含めれば自分の学年はトータル20人くらい入ったけど、結局どんどんやめていって、8、9人くらいになって、マネージャーが決まらないことで辞めていく人もいて、最後は6人くらいになったかな。その中では誰かマネージャーやれと言われたらやるかという話になってはいたので、結局は自分がやったということですね。
―マネージャーになって苦労したことなどはありますか。
苦労というか…。別に仕事が大変なわけじゃなくて、最初は電話番とかだったので…。
1年生の2月くらいにマネージャーになったんですけど、4年生の神津さん(昭和53年卒・学芸大附高)は卒部して、3年生の人が辞めちゃったので、2年生の柏崎さん(昭和55年卒・栄光学園高)と二人で全部やっていたわけですよ。
最初は寮の留守番、電話番、監督のユニフォームの洗濯とか、そういう雑用ばかりだったから大したことはなかったかな。
ただ4年生のときが当番校だったので、3年から見習いが始まるんですよね。
リーグ戦があるときに警察とか消防署とかに挨拶に行くんですけど、そういうのも全部ついていきました。4年生のときは通勤定期が支給されて毎日連盟事務所に行く感じでした。連盟行ってやることは、何か仕事するわけじゃなくて、連盟にいて色々なお客さんの顔を覚える、そういう感じかな。
野球界のいろいろな人との顔つなぎをしていた、それが4年生のときでした。
―そのような生活だと授業のほうはどうされていたのですか?
3、4年はほとんど授業に行ってなかった、実習も一つもとっていないです。なので一年留年しました。でも最初からそのつもりでいたので。親にも留年するからと言っていました。4年の冬に初めて実習に行ったのかな。
当番校だと自分の都合で休めないこともあるし、授業があるから出れませんとかはできないので。フルで対応するためにはこっちが切らないといけなかった。どっちみち大学院に行きたいと思っていたので、勉強するならきっちり勉強したいと思っていました。どっちも中途半端にはしたくなかったというのもありますね。
3年秋に研究室が決まったんだけど、最初に挨拶に行ってから1年くらい全く顔出さなかったら、そこの先生に「卒論どうするの?」と言われて「留年します」と。3年のときも造林の研究室の講義はとらなくて、4年のときは一応履修登録はして、けどほとんど講義は出なかった。そんな感じですね。
―大学院に行こうと思っていたのはなぜですか?
大学に残りたい、と思っていたからですね。研究職につきたくて、大学に残るか、どこか国の研究所に行きたいなと思っていました。学部の5年のときは国家公務員の試験と、千葉県と、大学院の試験を受けました。
―野球部在学時代の思い出や印象に残っている出来事はありますか。
一番記憶に残っているのは1年生の夏の合宿かな。釜石に合宿所と球場があってそこで合宿していました。あのときの監督が小笠原さん(昭和44年卒・日比谷高)で他にOBの方も来られて、面倒見てもらっていました。2週間くらいだったんだけど、とても暑くてすごいバテた記憶が残っています。そのときは選手として行きました。その前の年も釜石で合宿して小笠原さんが監督1年目だったのかな、そのときに1年生が脱走した事件があったそうです。それよりは練習そのものは多少ゆるかったと思うんだけど、きつかったよね。昔だから水飲まずに練習やるわけじゃない。ふらふらだったよね。
―学生時代の思い出はありますか?
3、4年が授業あまり行けなかったからほとんどないよね…。五月祭も駒場祭も行ってないからね…。
学科に一緒に進んだ同期の学年とはほとんど話したことはないですね。実習にも同期とは一緒に行っていないんですよ。3年生でとる実習が多かったので2つ下の学年と実習一緒に行っていました。
進学同期と卒業同期とあとまあ実習一緒に行った仲の良い人が何人かいる感じですね。
あと、定員が多くない割に当時林学に来る野球部員って多かったんですよ。駒場で2年留年した同期とは実習が一緒だったり、一学年下にも数人いたかな。
進学同期の人とはいま年に2〜3回くらい飲み会があって、それに参加したりしています。卒業してからのほうが会う機会が多いですね。
あと、東大野球部の同期で会うよりも六大学の同期のマネージャーと会う機会が多くて、特に法政と明治のマネージャーとは年に3、4回飲みに行ったり、バスケット見に行ったり(笑)。20年前くらいから会うようになったのかな。
慶應の人がちょっと遠くにいて、立教は同期のマネージャーがいなくて、早稲田は時々参加するから、4人で会うことが多いですね。
―部長になられた経緯はどういったものでしょうか。
東京大学が法人化する前の2年間かな、総長補佐というのをやったんですよ。各学部から一人ずつ出さないといけなくて。そのときに他の学部長の方々とお付き合いする機会があって、当時の佐々木毅総長が北海道演習林に来られることがあって、研究科長や総長補佐も一緒に行ったんですよ。そのときに当時の野球部長の河野先生が新領域創成科学研究科長を兼ねていたこともあって話す機会がありまして。野球部長ということは知っていたのでご挨拶に行ったら、河野先生から後任の野球部の部長をやってくれないかと言われました。河野先生があと何年かで定年になるのと、あと部の出身者じゃないと対応が難しい面もあることもあって次やってくれないかと。それで河野先生が辞められて野球部長になった感じです。河野先生と会わなければ多分部長をやっていないと思います。
―部長時代に印象に残っている出来事はありますか。
一つは最初の当番校のとき(平成22年)に、斎藤佑樹(早大OB)が4年生でいたときだったかな、秋季リーグ戦で早慶戦終わったあとに一日挟んで早慶の優勝決定戦があって、久しぶりに神宮球場が満員になって。その試合が終わったあとに閉会式をやったのが印象に残っていますね。久しぶりに満員を見たなあと。当番校だったから満員の観客がいる中で挨拶をしたというのも印象に残っています。
もう一つは最後の当番校のとき(平成28年)にハーレムベースボールウィークでオランダに行ったりしましたね。他の大学の選手と一緒に長期間ホテル暮らしも初めてだった。球場とホテルを行き来だけだったけど、なかなかいい経験だったなあと思います。
あとは最初の当番校のときにハワイのリーグが来て六大学のオールスターと試合をやったりしました。
部長をやっているときくらいからオールスター戦が増えたりして、新潟行ったり愛媛行ったりというのも多かったね。そういうときってわりと他の部長さんとも一緒だから親しくなったり、先輩理事の方とお酒呑んだりしました。
現役の部長の飲み会が年一回くらいで開かれているんだけど、そこにOBとして呼んでもらって参加したりしています。
マネージャーの同期だとか部長の先生とかと知り合える、他大学との繋がりができるという点で、今となってはマネージャーをしたり部長をしたりしていて良かったなと思います。
―マネージャーの先輩として現役のマネージャーにメッセージをください。
一つは字が汚いかな、メンバー表とかの。他大学の当時のマネージャーってけっこうきれいだった。もう少しきれいに書いてほしいかな。
あとは人数が増えたことの大変さもあるのかなと。大学の授業とか勉強との両立はしやすくなったんだろうけど、全体が分かっている人がいないかなという気もする。それぞれが分担するのは良いけど、チーフとかがちゃんと全体をわかっていないといけないかなと思います。
―最後に農学部教授として学生たちへメッセージをください。
やっぱり自分で考える習慣をつけることかな。言われたことやるわけではなく、何か活動するにあたって自分で考えて理解して説明できる方法をとる、そういう習慣をつけることで色々工夫ができるんじゃないかなと思います。
野球部の部長をやったときも、選手に対しては「打てない」「守れない」ときにどういうふうに工夫して練習するか、そういうことを考える頭を持たないといけないということは試合が終わったあとで話したこともあった。
それはどこでも通じることで、自分がマネージャーをやったときも、まず先輩のやっていることを見て理解して、やれと言われたらすぐできるような準備をしていたんですよね。いちいち指示を受けるのではなく、見たり聞いたりして理解する、そういうような姿勢なり習慣をつけるのが大事かなと。
勉強にしても単に覚えるのではなく理解をして知識を使えるようにするとか。
マネージャーの仕事にしてもなんで今これをやっているのか、これはどのような意味があるのかを理解しながらやることが大事で、これは働く上でも同じことだなと経験的には思います。
結局失敗したりしたとしても、言われたことやって失敗しましたじゃなくて、ちゃんと自分の立場として説明できることが必要だと思います。言われたことを言われたままやるのではなく、なんでこれをやるかという理解のもとにやれば失敗しないような工夫もできる、何かあったときに対応、説明ができるので。そういう習慣を身につけてほしいと思います。
丹下 健(たんげ たけし)プロフィール
○経歴
1958年(昭和33年) 千葉県生まれ
1977年(昭和52年) 東京大学理科Ⅱ類入学
1982年(昭和57年) 東京大学農学部卒業
1985年(昭和60年) 東京大学大学院博士課程1年時に中退し、東京大学農学部附属演習林助手に
1989年(平成元年) 東京大学農学部林学科助手
1995年(平成7年)
東京大学農学部林学科助教授
1996年(平成8年)
東京大学大学院農学生命科学研究科森林科学専攻助教授
2000年(平成12年)
東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林教授
2005年(平成17年)
東京大学野球部副部長就任
2006年(平成18年)
東京大学大学院農学生命科学研究科森林科学専攻教授
2007年(平成19年)
東京大学野球部部長就任(〜平成28年)
2015年(平成27年)
東京大学大学院農学生命科学研究科研究科長(〜平成31年3月)
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2019年6月19日
(・年・)
【第4回】 伊藤 仁 1978(昭和53)年卒 内野手 東海高
―東大を目指したきっかけを教えてください。
もともとは弁護士志望で京大を目指していましたが、テレビで早慶戦を見ているうちに神宮への憧れが強くなり、東大を志望するようになりました。高校時代の野球での不完全燃焼が尾を引いていたから、浪人時代も野球をやりたいと思っていましたね。
―憧れの東大野球部に入って印象に残ったことはありますか。
部活の練習で忙しく、勉強する時間が少ないと感じました。あとは、大学のクラスの友人が、僕が野球を頑張っているのを応援してくれていたのが嬉しかったし、励みになっていたね。授業のノートも貸してくれたりしていたし。大学を卒業してから何年も経っている今でも彼らとの付き合いはあるよ。
―当時のチームの雰囲気はどうでしたか。
僕がキャプテンを務めた4年生の時は、歴史に残るようなことを成し遂げたいと同期の皆で決めました。当時の全体練習は午後だったんだけど、それとは別に朝7時から朝練習をしようと決めて努力したね。そうやって4年生がまとまったことがすごく大きかったと思うよ。レギュラーじゃない人も朝練習に賛成してくれて、ずっと続けることができました。皆で頑張ったということが土壇場で自信になって、すごく良いことだったと思うよ。
当時の小笠原文也監督(昭和44年卒・日比谷高)は情熱家で、東大カラーを変えようと奮闘していた人だった。徹底的にミスをなくすことを目標にして、相手チームが仕掛けてきたときにいかに防ぐかを考えて、その練習をたくさんしてきた記憶があるね。
―きつかった練習はありますか。
冬に駒場キャンパスのグラウンドで陸上トレーニングをしたのが印象に残っているよ。駒場の体育の先生に教わってずっと走っていたね。あとは、釜石合宿も暑くて辛かったです。
―印象に残っている試合はありますか。
2年生の時の秋に、そのシーズンに優勝した明治に開幕2連勝したことがまず思い出に残っているよ。僕がベストナインを取ったシーズンでもあるし、心に残っているね。
あとは、4年生の時の開幕戦、慶應1回戦で快勝。そして2回戦でサヨナラ勝ちした試合がやっぱり思い出深いかな。
―社会人野球に進んだ際に、学生野球との違いは感じましたか。
やはり社会人野球では質の高い練習をやっていたよね。学生野球と違って下のレベルが高いから、切磋琢磨しないといけなくて。競争の激しい世界でしたね。あとは、食べ物が良かった。体がずいぶん太くなりました。
―社会人野球時代の様子について教えてください。
3番セカンドとして主に出場して、3年目でベスト4になることができたのが嬉しかったね。東大時代では野球についてよく考えていたし、周りの選手たちも同じようだったから、その経験を生かして、他の選手たちに考えとかを教えていたかな。褒めてあげると皆良く打つんだよなあ。
普段の生活リズムとしては、昼までは仕事をして午後に練習という形でした。徹底的に走った記憶がありますね。
―東大野球部の監督になった経緯をお聞かせください。
平野裕一監督(昭和53年卒・戸山高)の後任として、OBを通してお話が上がりました。僕は社会人だったので、任期が2年という決まりでした。就任当時は良い選手が多いという印象がありました。
―監督をする上でのモットーなどはありましたか。
平均身長180cmのチームを作ろうと思っていました。3番を打っていた櫻井誠(昭和61年卒・灘高)とか5番を打っていた川幡卓也(昭和61年卒・国立高)を始めとして、高身長の選手がそれなりにいましたからね。監督の2年はとても短いから、イメージを作って選手を育て上げたよ。六大学で勝てないなんて思っていなかったね。
あとは、理屈をもって説明してあげることも大切にしました。ベンチ入りを決めるときなどに不満がある選手にはきちんと理屈で説明したね。
技術面で言うと、初球の変化球を打つというノウハウを教え込んだかな。ただ口で言うだけでなく練習で実践させました。このノウハウを生かすことができた立迫浩一(昭和60年卒・県立浦和高)が首位打者を獲得したことがとても嬉しかったな。ホームランを打つ選手も多かったのもこのおかげか、とても誇りです。
―選手とのコミュニケーションはどのようでしたか。
コミュニケーションは深く取れていたんじゃないかと思っているよ。栄養をつけてあげようと、選手を結構ご飯に連れていっていたしね。社会人野球を経験している僕からしたら、選手をご飯に連れていくのは当たり前の感覚ではあったんだ。
―現在社長としてご活躍されていますが、野球部での経験が役立ったことはありますか。
監督を経験しているから、人を動かすという面では役に立っていると感じています。野球で言うところのレギュラー外の人たちも合わせて一つのチームであるということがひしひしとわかります。腐っている人がやる気になるにはどうしたら良いかを考えるようにしていますね。あとは、野球を続けていた中で顔が広くなったことも役立ったことの一つですね。
―人を動かす上で大切にしていることはありますか。
個人の全人格をよく見てあげることを心がけています。結婚している人であったらその人の家族のことも考えてあげる。個人が幸せになることが第一ですからね。今、特に若い人の中では個人よりも会社に尽くすという風潮があるかもしれないけれど、やるべき仕事をきっちりしていれば個人の幸せもきちんと考えてあげることが必要だと思っているよ。
―今の東大のチームはいかがですか。
レベルが高くて一生懸命やっているという印象を持っています。東京六大学野球は日本の野球エリートが集まっていて、隙のないチームばかりだよね。そんな相手に勝つためにはもっとレベルの高い野球をやることが必要だと思うよ。ちょっとしたことで結果は変わってくると思うから、質の高いものを体感してほしいね。チーム内でお互いにレベルの高い目で指摘しあうと良いと思うよ。
―伊藤さんにとって東大野球部とはどのようなものですか。
僕が東大野球部に入れたことは幸せなことだと思っています。東京六大学野球というレベルの高い世界で戦うことは難しいことだけれども、難しいからこそやりがいがあるからね。できることならもう一度選手として挑戦したいと思っています。
伊藤 仁(いとう ひとし)プロフィール
○経歴
1954年(昭和29年) 愛知県生まれ
1974年(昭和49年) 東京大学文科Ⅱ類入学
1978年(昭和53年) 新日本製鐵株式会社入社
1983年(昭和58年) 東大野球部監督就任
2008年(平成20年) 新日鐵住金ステンレス株式会社 取締役常務執行役員
2013年(平成25年)
代表取締役社長
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2019年5月31日
(・年・)
【第3回】 門松 武 1971(昭和46)年卒 投手 湘南高
―東大に入学された動機を教えてください。
父親が公務員になりなさいと言っていたのが動機かな。父親が教員で、公務員だったから行って欲しかったんじゃないのかな。昔の人は官と民をすごく分けて、官には尊敬の念を持つから官の公務員になって欲しかったんだろうね。
―東大を目指したきっかけを教えてください。
幼いころは読売ジャイアンツに入りたかったのですよ。だんだん自分の実力がわかるなかで、大学野球を最後の目標にしようという気持ちがありました。大学野球の中でも、やはり知性もあって野球も強いのが東京六大学野球しかないと思いました。六大学のなかで東大が弱いんだったら東大を強くしようと思い、東大の野球部に入るために東大を志しました。
―その後一年間浪人されたとのことですが、浪人時代の思い出はありますか。
浪人時代は日吉の叔父の家に下宿をしていました。その近くに慶應義塾大学の合宿所や雨天練習場があったので、よく見学しに行きました。ミットの音とかすぐ近くに聞こえるなか、慶應のピッチャーを見たりして、浪人時代はそういう野球の関わりでした。それで非常に生気を取り戻して、勉強も頑張るぞという思いでしたね。
―東大野球部に入部を果たしましたが、下級生の頃から期待されていたのでしょうか。
当初から期待されていたと思います。高校の時は甲子園出場した武相高校に0-1で惜敗するなど、実績はありました。
しかし、一浪して、上から投げるコツを忘れてしまったんです。
一年間は鳴かず飛ばずで、上から思いっきり投げても全然力が伝わらず、投球の「タメ」をうまく作ることができませんでした。そこで1年の冬頃に、当時の坪井監督(昭和10年卒・旧学習院高)に「下から投げてみろ」と言われて、数か月やってみたらうまくいって「タメ」ができるようになり、2年生の時に下手投げへの転向を果たしました。
―2年生春季リーグでの初出場は法政大学を相手に六大学の洗礼を浴びる形となりました。
今から見てもすごいチームですよね。
私が高校3年生の時にドラフトが始まり、それからは高校の選手が青田買いで大学を経由せずプロ野球に進むことが増えました。当時の上級生はそのドラフトが始まる前の世代なので、優秀でもプロに行かずに大学に来ています。そのころは強い六大学。だから同じ勝利でも当時の4勝は今とは違うんだという気持ちです。(笑)
この時は橘谷さん(昭和44年卒・都立西高)が先発で、初回に点を取られたんだけど、その裏に東大が山中から4点取ったんですよ。
―1回裏の段階では「勝てるぞ」という雰囲気だったのですか。
「いけるぞ!」とは思わず、「どうなってるんだ」という気持ちでした。
その後、橘谷さんが3回でおいつかれてしまい、私が4回から最後まで投げました。
この時に田淵に2本打たれましたね。このシーズンの法政は全日本選手権の駒澤戦も十数点取ってて、早稲田や立教も大差で法政に負けているんですよ。
この時の法政は特に異常でしたよ。プロでもすぐ活躍しましたからね。
―早稲田戦で初先発を果たしました。
そうですね。この時は谷澤、荒川などがいました。
―初打席で三振を挙げられたのですね。
ボールだったんだけど審判がストライクって言ってくれました。荒川は怒ってましたねぇ。
初登板の最初の打席だったのですごく印象に残っています。
―緊張されましたか。
そりゃあ緊張しましたよ。(笑)
もうやけくそになって、腹をくくって俺が投げなきゃしょうがないだろという思いでした。
―昭和44年秋には開幕の明治戦で初勝利を挙げられました。
この模様はNHKのニュースにもなり、小林キャプテン(昭和45年卒・私立武蔵高)のご家族がラジオのテープに撮ってくれてました。
この時は早川さん(昭和45年卒・甲府一高)という素晴らしいキャッチャーがいて、ものすごく心強かったです。
早川さんはこのシーズンでベストナインに選ばれました。
ガタイが素晴らしく、東大離れしてましたね。
―勝った時の雰囲気はどうでしたか。
なんせ当時は人数が少なかったんですよ。
東大紛争で入学試験が中止になり、新入生は誰もいなかったです。
「安田砦の13人」などと呼ばれてましたね。
もちろん全員ベンチいりで、マネージャーにもユニフォームを着せたいくらいでした。
―祝勝会とかは開催したのですか。
やったとは思うんだけど忘れてしまいました。
当時は近所に「若竹」という行きつけのお寿司屋さんがあり、そこにいったのではないかと思います。
―このシーズンは慶應にも勝利を挙げました。
このカードは3連投でしたね。
一戦目は石渡さん(昭和45年卒・日比谷高)が勝利し、二戦目、三戦目は完投しました。
二回戦では、私が打った打球がレフトポールを巻いて入ったと思ったらファールと言われてしまったんですよ。もしそれが入っていたら勝ってたんですよ。この試合に勝ってたら4位でしたね。
―このシーズンは門松さんがフル回転ですね。
そうでした。石渡さん、岩城(昭和47年卒・戸山高)と3人でやりくりしていました。
―立教戦は2完投でした。
当然ですね。
立教戦は勝てると思ってたし、勝てなきゃだめだと思っていました。
ビビることなんかまったくなく、自分の投球ができれば大丈夫と思ってました。
アンダースローだったので、コースを少々外して投げても、今で言うツーシームというやつを投げていれば大きいのは打たれない、とそういう自信がありましたね。
―4年生になってからはどうでしたか。
4年生になってからは疲れちゃってダメでしたね。
一つしか勝てませんでした。
―その一勝は4年春の早稲田2回戦では自ら完封してサヨナラヒットという試合でした。
湘南で4番を打っていたこともあり、打撃には自信があったんですよ。
坪井監督にも上位打線を打たせてもらったこともありました。
―当時のライバルとして、印象に残っている選手はいますか。
同じアンダースローとして上岡(慶大OB)に負けたくはないと思っていました。
上岡より私の方が上だったんですよ。ある日法政の野口にトイレで「上岡より門松の方が上だ」と言われました。
そこで野口に言われたことで自信はありました。
そしてやっぱり、3年の全盛期の時に、山本浩二や田淵、谷澤や荒川といった法政や早稲田からプロに行った強打者と対戦したかったという思いがあります。
―大学の時の私生活はどうでしたか。
私は小学校からの幼馴染と結婚しました。
大学生の時は今の妻と交際してましたが、試合の後はいつも神宮球場で待っててくれました。
同期にも将来の自分の嫁として紹介し、同期と旅行に行くときも彼女を連れて行ってましたね。
―当時の印象的なエピソードがあれば教えてください。
当時は都バスで神宮まで来てましたが、一度東大が第一試合の時、第二試合で出てくる法政の田淵のプロテクターをバスに積んでしまったことがありました。バスでは赤坂あたりで気づいたのだが、法政の試合はそのせいで遅れてしまったんです。
―大学時代の学業についてはどうでしたか。
野球部に入るため、一番入りやすい理科Ⅱ類で入学し、学科も野球部に集中するためにあまり勉強しなくていい学科を選びました。農学部は野球の先輩も多く、野球メインの学生生活でした。
―卒業後工学部に学士入学されてますが。
当時の国分部長が土木工学科の教授だったのですが、先輩たちは大成建設に就職した人が多かったんです。自分も漠然と大成建設に行くのかなと考えていたところ、国分部長に工学部の土木工学科に学士入学することを勧められ工学部に進みました。
―土木工学科に進学後は。
当時の3年生は、東大紛争の影響で入試がなかった学年のため、進学者は自分を含めて数名しかいませんでした。
土木工学科に入学した後は、大成建設よりも役人の道を志すようになりました。
また当時は土木工学科の助教授であった岡村さん(昭和36年卒・土佐高)が監督になり、岡村さんの指名により助監督も務めました。
―建設省に入省後は。
役人は面白いですよ。国会議員、地方自治体、企業など相手がいろいろありますからね。
僕も河川局長まで務めることができ、成功した方だと思います。
―具体的にはどのような仕事をなさっていたのですか。
河川局では「ダム屋」として二つのアーチダムの現場に関わりました。
福井県の真名川ダムや広島県の温井ダムです。
「最後のダム屋」と自称しているんですよ。
―仕事で印象に残っていることは。
色々な方との人間関係が印象に残ってますね。土木技術は土木研究所が受け持ってましたが、我々は行政マンとして、ダムを容認してもらう地元との交渉、大蔵省との交渉、そして国会議員や国会への説明など、の役割を演じていました。アーチダムは経済性に優れ、コンクリートが薄いので非常に神経を要する構造でした。当時の地元の人とは今でもお付き合いがあります。
自分のことは置いといて、相手の人がどうすれば気持ちよく動けるか、そういったことに気を付けるように後輩にも教えていました。
―少し話が戻りますが、卒業後も野球を続ける可能性はなかったのですか。
4年生で精神的にも肉体的にも燃え尽きて全くやる気はなかったですね。
―今、東大野球部を振り返ってみてどうですか。
人生の中ではものすごい有難い存在で、人生の前半としてはやってよかったなと感謝する気持ちですよ。やりがいもあったし。後半も役人生活ですけども、思い通りの生活ができました。
―現役世代へのメッセージをお願いします。
早く一勝して欲しいです。
一勝できる体制には近づいてきていると思います。
あとは野手がしっかり打って、早く一つの成果を挙げられれば、バタバタと勝てるようになると思います。
門松 武(かどまつ たけし)プロフィール
○経歴
1947(昭和22)年小田原生まれ
1971(昭和46)年東京大学農学部林学科を卒業後、同大学工学部土木工学科に学士入学
1973(昭和48)年建設省入省
2008(平成20)年河川局長を最後に国土交通省退職
同年 財団法人日本建設情報総合センター理事長
2018(平成30)年
日本振興株式会社顧問
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(・年・)
【第1回】 田和 一浩 1957(昭和32)年卒 マネージャー 都立北園高
―東大入学までの経緯を教えてください。
東京の公立高校は学区制でした。東大入学者の上位10校は都立8校、教育大附属、湘南でした。文京区は豊島区、板橋区と同じ学区で都立小石川高と私の出身都立北園高が10位に入っていました。そして東大だけを志望して受けて、幸い入りました。
―入学前から野球部に入ろうと思っていたのでしょうか。
全く思っていなかったです。何をするかはっきりしておらず、とにかく入ることに一生懸命でしたね。当時は文科一類が法科と経済ですから、経済学部に行こうと思い、文一を受けました。
―野球部に入部した経緯を教えてください。
私は英語とドイツ語で受験したので、文一のドイツ語既習クラスに入り、そこで後の主将であった故南原晃(昭和32年卒・私立武蔵高)にスカウトされました。4年次に東大が当番校になることが判っていたので、野球部ではマネージャーを懸命に探していました。私は体育の授業で柔道を選択して、夜は道場に通い黒帯を取得しましたが、野球部に入ったことでその後の人生が一変したということです。
入部して故真田幸一先輩(昭和27年卒・旧学習院高)からマネージャーの心得を教わったのがその後も役立っています。東大産婦人科の医師を勤めながら審判員を務められました。
―野球部在籍中の印象に残っている出来事はなんですか。
最上級生の春10戦10敗に終わり、連敗打破のため夏には卒部した若手の先輩が順番に会社の休暇をとって練習に参加してくれたんです。今のように年間16の休日がある時代と違い、9日のみで土曜は半ドンですから、勤めている人は大変な犠牲を払って来てくれたんですね。秋の開幕試合で早稲田に1対0で勝利し、先輩共々感涙に浸りました。秋のシーズンは3勝1分10敗で勝ち点がなかったため最下位に終わりました。
―当時のチームの雰囲気はどのようなものでしたか。
負けが続いていると、帰っても面白いはずはないわけだけれど、それでもそんなにトゲトゲした空気は全くなくて。練習の時間が今と全く違っていたんですよ。午前中は授業に出て、昼食後に当番が大きな声で「衣替え!」と叫ぶんです。そうやって号令をかけると、みんなが「練習かー」と言いながら、ユニフォームを着て、グラウンドへ行って、夕方まで練習して、それで帰ってきて一緒に皆で風呂に入って、食事して、と。そういう練習の仕方だったんですね。その頃はほぼ全員入寮できるような部員の数だったんです。
―田和さんも「衣替え」は叫んだんですか。
私も叫びました。だんだん授業の出席が厳しくなったということもあって、一斉にグラウンドへ出て行くことは難しくなったので、「衣替え」という昔からの習慣はなくなったんですね。
―試合以外の思い出はありますか。
明大の故島岡吉郎監督に「泊りに来なさいよ」と言われて、当時は京王線明大前にあった明大グラウンド近くの合宿所に泊めていただいたんですよ。最上級生が便所掃除をするのと合宿所の掃除が行き届いているのが印象的でした。帰りは前年に大洋ホエールズに明治から入団した秋山(秋山登)・土井(土井淳)のバッテリーら5人がプレゼントした日産ヒルマンで本郷まで送ってもらいました。運転手は当時のマネージャー小林正三郎氏(現・六大学野球連盟評議員)だったという縁がありました。それで去年長野県の飯田で六大学のオールスターがあった時に、私は御大の館という温泉に一泊して、念願の墓参を果たしました。墓碑を見て、御大が土地の名家出身であることを知りました。
―練習にも参加されましたか。
部員数が少なかったのでマネージャーもバッティング・キャッチャーなどを手伝いました。思い出に残るのは、下級生が、打撃練習で頭部にデッドボールを受けたんです。当時はまだヘルメットがない時代で。暫く休んでからまた元気に練習に加わって、寮で賑やかに夕食も食べたんですが、その晩に急に意識がなくなってしまったんです。それで東大病院に緊急入院して、私はベッドの下で一夜を明かしました。外は大嵐で、うめき声を聞く度に「生きていてくれ」と祈りました。しかもその選手は練習を見に来た時に私が入れよ、と勧誘した人だった。だから自分に責任があるなということを思った。そのご本人は無事回復して、商社に勤務して活躍しましたよ。
―キャンプはありましたか。
冬は静岡のお寺に泊まり草薙球場でキャンプしていました。新チームになった昭和30年暮れから正月にかけて長崎でキャンプを張りました。当時長崎市助役だったに鈴田正武さん(昭和5年卒・旧五高)に大変お世話になりました。大牟田、福岡、大分を訪問しましたが、野球はオフシーズンで試合相手も野球部先輩が特別に手配してくれた社会人強豪であったため、一方的な結果に終わりましたが、当時東京からの九州遠征は珍しいこともあって、全ての訪問先に先輩が手を回して手厚いもてなしを受けました。福岡では井波義二先輩(昭和24年卒・旧富山高)が日本興業銀行の若手社員で勤務されていて、西日本鉄道社長主催の歓迎夕食会を催していただいたときの水炊きの味が忘れられません。
―マネージャーも練習に参加していたという話がありましたが。
最上級生の時に運動会の主催で駒場から本郷までマラソン大会があったんです。野球部も足に自信のあるのが出て、私も悪くないタイムで完走しました。渋谷や飯田橋の大きな交差点があるところでは警察官が優先的に通してくれるという、時がまだ緩やかに流れている時代でありました。
―学生時代を振り返ってみて、思うことはありますか。
今から思うと、運動部の非常に良いところはね、文系と理系の学生が一緒になれる。寮を持っている野球部の現役部員は、そのメリットを活かして欲しいです。
当時の一誠寮は戦前からの建物で、主将とチーフマネージャーだけは個室、あとは2人部屋または大部屋でした。1階の隅が日当たりの全くない地獄と呼ばれた大部屋、2階の少し日当たりの良い部屋が天国と名付けられていました。3年生の時に先輩の寄付で白黒テレビ1台が食堂に入り、野球ナイターの時は大勢が集まりましたね。
―マネージャーならではの、リーグ戦の思い出を教えてください。
他校のマネージャーとは、同級でも「さん」付けで呼んでいたし、神宮球場の連盟事務所もどこか張り詰めた雰囲気がありました。早慶戦の前夜に当番校マネージャーは当時信濃町の駅舎に隣接していた学生野球会館に泊まり、神宮球場で徹夜している学生の見回りに行きました。麻雀をしている学生もいましたよ。
―就職を決めた時のことについてお聞かせください。
当時はマネージャーが毎週都内の先輩に六大学の入場券を届けていました。先輩に会いに行くのに会社を訪問するので、選手と違って会社の雰囲気というのがある程度判っていたんです。私は海外に行きたかったので先輩のいる商社を志望して、9月のリーグ戦中に一度幹部面接しただけで入社が内定しました。取得単位が少なかったので、卒業は大丈夫かと念を押されましたよ。マネージャーの役得で他大学のOBからも招待状、推薦状をいただき、就活はしませんでした。
―勤めている間に野球部で得た経験が役立ったことは。
1965年に豪州三井物産メルボルンに赴任し、当時1年間は家族帯同が認められなかったため、週末は地元の野球チームでプレーしました。この頃オーストラリアの野球はまだ発展途上のレベルだったので、日本から出張して来られた日本鉱業日立の鈴木幸治氏(立大OB)に社会人チームの派遣を相談したところ、故山本英一郎氏(慶大OB)の英断で1968年に故本田弘敏・日本社会人野球連盟会長を団長とする都市対抗優勝チーム富士製鉄広畑の歴史的訪豪が実現しました。これが大成功に終わり、その後日本と豪州との野球交流が始まったんです。翌1969年には故林和男氏(早大OB)率いる西東京リトルリーグがメルボルンに来ましたね。
2度目のメルボルン勤務時の1990年に住友金属河合貞男団長(慶大OB)のチームがメルボルンに、1991年に故牧野直隆高野連会長(慶大OB)以下の大阪府高校選抜チームがメルボルンに、慶大野球部の故前田祐吉監督、綿田博人助監督(現・先輩理事)、大久保秀昭主将(現・監督)一行をブリスベンに迎えるなど、海外勤務中も東京六大学とは数多くの縁に恵まれました。さっきの質問の、野球が役に立ったかということは、仕事の上では役に立ったかは別だけれど、個人的にはまた野球のつながりがそこでできたという意味で役に立ったということだね。
―東大野球部の先輩理事も務められました。
野球は学生時代で十分と思っていましたが、先輩理事をやるようにという話をもらって図らずも先輩理事に就任し、再び人生が一変しました。
―日本学生野球協会常任理事も務められ、野球に関わり続けていらっしゃいます。
そうですね。学生の方の代表ということで、全日本野球協会の専務理事をやって、それをやっている時にジュネーブにある今の世界野球ソフトボール連盟、(旧・国際野球連盟)の第一副会長をやりました。今はアジア野球連盟シニアアドバイザーと、全日本野球協会のシニアアドバイザーとして、英語のホームページ作成をこの数年お手伝いしているんですよ。例えば高校野球の投げ過ぎ問題なんかの記事であれば、野球界で今何が起きているというのが非常によくわかるし頭の体操になるんです。速報というよりも、あとになって記録や歴史に残ることを目指しています。アジア野球連盟のホームページでは、香港、マレーシア、フィリピン、韓国、パキスタン、インドなどの国の記事からピックアップしたものを、台湾の事務局がアップしています。
―田和さんにとって、東大野球部はどのようなものですか。
なんとなく勝手に一体感を覚えていますね。
戦前、戦争直後の野球部OBの多くが亡くなられました。当時の先輩は殆どお会いしたことがありますが、大正15年卒の先輩で故小笠原道生氏(旧六高)とだけは面識がありません。同氏(和歌山中学)は第1回全国中等学校優勝野球大会(現・甲子園大会)に出場し、医学部卒ながら旧文部省の体育局長まで務め、悪名高い野球統制令を推進したとされていますが、高官でありながらパージ(公職追放)に掛かっていないし、野球とは無関係に同氏を囲むグループが戦後も続いていたなど、私にとって学生時代から謎が多い存在で、調べてみたいと思っています。歴史を一面的にみてはいけないという例かもしれません。
―マネージャーにひとこと。
「名マネージャーの下に勝利あり」(故好村三郎氏・立大OB・朝日新聞より)。名マネージャーになれなくても、その努力の過程が大切だと思います。
田和 一浩(たわ かずひろ)プロフィール
○卒業後の主な野球関係役職
東京六大学野球連盟先輩理事、日本学生野球協会理事、全日本アマチュア野球連盟(現・全日本野球協会BFJ)専務理事、国際野球連盟(現・世界野球ソフトボール連盟)第一副会長、アジア野球連盟(BFA)シニアアドバイザー、運動器の健康・日本協会、業務執行理事。
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(・年・)
【第2回】 清水 幹裕 1966(昭和41)年卒 外野手 岡崎北高
―東大に入学された動機を教えてください。
父親が公務員になりなさいと言っていたのが動機かな。父親が教員で、公務員だったから行って欲しかったんじゃないのかな。昔の人は官と民をすごく分けて、官には尊敬の念を持つから官の公務員になって欲しかったんだろうね。
―野球部に入部された動機や経緯を教えてください。
中学校ではずっと野球をやっていて、高校の時は体を壊してしまってできなかったんだよね。医者から無理をしてはいけないといわれて仕方ないと思った。それで大学に入って、野球そのものは好きだったから、野球部に入りました。実は入学して1年目は陸上部にいて、でも野球がすごくやりたくて、それで練習を見に行ってなんとかなると思って2年生の時から入部しました。
―野球部に所属している間、勉強はどうされていましたか。
今の部員は勉強してるのかな。駒場にいる時は語学と体操なんかは出席があったけど。法学部に進学すると、今はどうか知らないけど当時は全然出席がなくて、試験の日を入れても2週間くらいしか学校に行かなかったなんてこともあったかな。
―野球部の練習はどのようでしたか。
厳しくもなく、しかし楽でもなく、だからやっぱり勝てなかったのかな。もともと経験がないのだから、もっとやるべきだったね。審判になってよその学校を見てるとものすごく練習をやってるもんね。
―野球部にいて印象に残っていることは。
僕が一番びっくりしたのはね、入ったときに監督は清水健太郎さん(昭和3年卒・旧一高)だったけど、実際に指揮をとられたのは岡村甫さん(昭和36年卒・土佐高)だったんだよ。まだ岡村さんが大学院生で指揮をやられて、野球もできて、17勝もされてる方で、勉強もできて。それで岡村さんから言われたのは、「お前らなんで同じ本を2回も読むんだ」って。世の中こんな人がいるのかってびっくりしましたね。東大ってすごいとこだなって思いました。
あと、僕たちが4年生の時に今の一誠寮が建ったんだよね。それで僕たちが初代なんだよね。だから半年間くらい、球場のネット裏にベニヤなんかで家作って住んでたんだよね。それでまだ壁が湿っている新しい一誠寮に入ったのは思い出だね。
―印象に残っている試合はありますか。
1つはやっぱり、自分が4年生の時に慶應に勝ち点を挙げた試合かな。4年生になって初めての試合で。1回勝つのはまだあるだろうけど、勝ち点を挙げるのはなかなか大変なことだからね。連勝して勝ち点を挙げたし。この試合が1番印象に残ってるかな。
もう1つはね、井手峻(昭和42年卒・新宿高)がいいピッチングをして、明治大学と途中まで0-0だった試合があって、センターを守っていたんだけど、2アウトでセンターフライがきて、サングラスをかけてなかったから捕れなくて負けてしまった。当時からサングラスはあったから使うべきだったのにそうしなかったのはどこか甘かったのかな。
それと、3年生の時の開幕戦が法政大学戦で、当時は東京大学は開幕の1戦目に割と勝ってたんだけど、その開幕戦で2-0で勝って、その試合でランナー2塁の時にセンター前ヒットを打って。打点を挙げたのは嬉しかったし、やっぱり思い出に残ってるね。
2つは嬉しい思い出だけど、井手のセンターフライを捕れなかったのは、今でも井手と会うと申し訳ないと思うくらいだね。
―野球部を卒部された後は。
大学を卒業した後は文部省に入りました。でも、4年間務めて辞めてしまった。それで司法試験を受けて弁護士になりました。
―文部省を辞められて、弁護士になられましたがなぜでしょうか。
実はね、僕の中学校の野球部の監督だった人が、そのころは知らなかったけど、司法試験の勉強をしながら先生をやってたんだよね。それで、野球教えながら司法試験の勉強をするなんてすごいなって思ってた。司法試験を受けたのは、その先生の影響はあったと思うね。
それと、弁護士になったのは、2年間の司法研修の時は検事の仕事がすごく面白いと思ったんだけど、その時は審判になって5年くらいで、審判がすっごく面白くて。検事になったら転勤あるし、公務員が審判をできるような時代じゃないから、弁護士になったんだよね。審判がやりたかったから弁護士になった。弁護士になった時は父親から怒られて、口もきかない時期もありました。不愉快だったのかな。
―審判をなさっている経緯を教えてください。
六大学の各校から3名、必ず野球部のOBから出さなければいけなかった。東大だと一誠会の会員でないといけない。僕が卒部した時、坪田宏(現姓浜野・昭和34年卒・神戸高)さんが転勤になって審判を誰かがやらなくてはならなくなった。僕は留年していて、一番暇だったからやってくれないかという話があって。それでやってくださいと言われて、野球が好きだったし、2、3年ならできるだろうということで気楽に引き受けて。40年もやるとは思わなかったけれどもね。とても偶然なことでした。今は、審判技術顧問をやってるけど、やっぱりグラウンドに出て選手と一緒に動かないとね。
―審判時代の思い出を教えてください。
審判の時の思い出はたくさんあって話し出したら終わらなくなっちゃうね。
最初の時に、他の大学の選手はすごいことを言うなと思ったことがあって。立教大学のセカンドに秋山君(秋山重雄・昭和44年卒)という選手がいて、彼がセカンドできわどい盗塁を俺が「セーフ」って言ったんだよ。そうしたら、「あれがセーフかよ。俺らは死に物狂いでやってるんだぞ。しっかり見ろ。」って言ったんだよ。こういう口をきく選手がいるのかと思ったね。一生懸命だったのかもしれないけども。
―現在は審判技術顧問を務めていらっしゃいます。
今は、審判技術顧問をやっていて、東大の試合を担当することが結構多いんだけど、東大の試合を見てると、やっぱりきわどいプレーは東大有利に見えてしまうんだよね。きわどいのは全部セーフに見える。それで審判がアウトって言うと、バカヤロー、それは違うだろって思う。そこで、こういうことを40年間も思われながら審判やっていたことに気づいてぞっとしたね。
―今の東大のチームはいかがですか。
高校生のように無我夢中でやれているように思える。そこが人気の理由かもしれないね。池田高校の蔦文也監督がおしゃっていた「負けることは不名誉なことではない。不名誉なのは負けてダメな人間になることだ。」ということを言っているんだけど、東大生はダメな人間にならないところがいいね。ただね、もうちょっと元気をだしてもいいんじゃないかな。浜田監督(現野球部監督・昭和62年卒・土佐高)みたいなむき出しの闘志を持ってもいいかもしれない。もうちょっと感情を表に出してもいいのかもね。
―清水さんにとって東大野球部とはどのようなものですか。
自分を育ててくれたところというか、自分にすごく豊かな人生を歩ませてくれたところとしか言いようがないな。東大野球部員であったことで非常にたくさんのことを経験させていただいて、ありがたいところでしたね。どこかに戻れるなら東大野球部にいたときに戻りたいね。
清水 幹裕(しみず つねひろ)プロフィール
○経歴
昭和17年 愛知県生まれ
昭和37年 東京大学文科Ⅰ類入学
昭和41年 東京六大学野球審判員となる
昭和42年 東京大学法学部卒業
昭和44年 文部省(現文部科学省)入省
昭和50年 弁護士登録
平成20年 審判員を引退し、審判技術顧問となる
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2019年4月23日
(・年・)
| 野球部・応援部の冊子〜「ただひとつ」 |
| 通常版|秋版ただひとつ |
2016/12/29
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東京大学野球部と応援部の冊子「ただひとつ」2016年度版(A5サイズ、40ページ)をご希望の方に郵送いたします。
2016年度版の郵送料は部数に合わせ切手をご同封ください。
1部・・・180円切手
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- 用紙にご希望の部数を明記してください。
- 合計部数に相当する切手を同封し、下記あて先までお申し込みください。
[あて先]
〒113-0023
東京都文京区 向丘1-5-9
東京大学運動会硬式野球部 一誠寮
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