
〜東京六大学野球連盟結成100周年への思い〜
東京六大学野球連盟結成100周年を記念し、春・秋のリーグ戦で各校5名、総勢30名のレジェンドの皆様が始球式をしてくださいます。
レジェンド始球式をしてくださる東大野球部OBの方々にインタビューを行いました。
第1回は4/19(土)明治大学戦にて始球式をしてくださる井手峻さんです。
【第1回】 井手 峻 1967(昭和42)年卒 投手 新宿高
―東大入学までの経緯を教えてください。
私が当時通っていた新宿高校は全員が東大を目指せるような学校だったので、その流れに乗っただけですね(笑)。1年浪人して入学しました。
―大学に入学してから野球部に入ることを決められたのですか。
高校までも野球部だったのですが、「もう野球はいいや」と思って他の部活でのんびりやろうと思っていました。でも、野球部の先輩が声をかけてくれて、野球部に連れていかれて入ることになりました。
―野球部在籍中の印象に残っている思い出はありますか。
大学3年のときに東京六大学選抜チームに選ばれて日本代表としてマニラに行ったのですが、その時に相手校の選手と交流したことが印象に残っていますね。
―4年間で印象に残っている試合はありますか。
自分が先発を任されてから初めて勝てた慶應との試合ですね。2つ上の先輩に新治伸治さん(S40卒)という東大野球部で初めてプロに行かれた先輩がいたのですが、新治さんが卒業されて自分が3年になってから先発を任されるようになりました。慶應との試合はやはり初勝利だったので、すごく心に残っていますね。
―当時のチームの雰囲気はいかがでしたか。
厳しいというよりは和気あいあいという感じだったかな(笑)。当時は新治さんがいたし、新治さんが卒業されてからも自分が力をつけて、毎年1,2勝はできていたからみんなのんびりやっていた気がしますね(笑)。
―学生時代を振り返って思うことはありますか。
もっと野球に打ち込めばよかったなと思いますね。厳しさが足りなかったなと感じます。
―プロを意識し始めたのはいつ頃でしたか。
新治さんがプロに行かれたというのはあったのですが、自分がプロに行くことは全く考えていませんでしたね。大学3年の秋にはもう就職先を決めていましたし。当時はプロ球団から事前に何の連絡等もなくて、いきなりドラフトに乗っかっちゃったんですよ。本当にびっくりしましたね。でもそれと同時に、体がかーっと熱くなって、やってみたいという気持ちが湧いてきました。就職先を紹介してくれた先輩とも相談したのですが、先輩は「やってみろよ」と背中を押してくれて、プロの道に進むことを決めました。
―プロに入ってどんなことを感じましたか。
私は体重もないし、体格差の面でやっぱり違うなと感じましたね。あとは、球のスピードが全然違いました。
―その後野手に転向されたのはどのような経緯だったのでしょうか。
実は小さい頃からずっと内野手として野球をやってきたのですが、高校の時のエースが途中でグレてしまってね(笑)。彼が退部してしまったので、仕方なく私がピッチャーをやることになりました。大学に入ってからも内野手をしていたのですが、新治さんが抜けた後に次のピッチャーがいないというのでまた内野手からピッチャーに転向しました。プロ入り後も、二軍の紅白戦で人が足りないというので内野手をやったりしていました。そこでコーチ陣に目をつけられて、内野をやってみろと言われて内野手に挑戦しました。
ピッチャーを3年間やって、その後自分の1番やりたかった内野手を2年間やって、やっぱり自分には無理だなと思ったのでもう5年でプロはやめようと思ったんです。その時ちょうど与那嶺要さんが打撃コーチから監督になるタイミングで、なぜか私に目をつけて「外野をやってみろ、俺が全部教えるから」と言われました。元々打撃コーチなので本当はバッティングを見るんでしょうけどバッティングには期待されていなくて、外野の守備固めとして私を鍛えてくれたんです。5年間外野手をやってその間に1回優勝もできて、10年目を終えたタイミングで与那嶺さんも監督交代になったので、自分も区切りをつけようと思って引退しました。
―現役引退後について教えてください。
引退した直後は、野球に携わらず妻の親族の会社に勤めることにしました。1年間勤めたところで、当時の中利夫監督から電話が来て「まだ1年しか働いていないのだから、抜けてもそんなに迷惑はかからないだろう。戻ってきて俺を手伝え。」と言われて(笑)。それで中日に戻ってコーチをやったり、二軍監督をやったりしましたね。
―東大野球部の監督になられたのはどのような経緯だったのでしょうか。
中日のコーチを終えた後、何か東大野球部に還元することはできないかなと思いながらも、65歳までは球団職員を務めていました。監督交代の時期の兼ね合いもあって、退団後はまず新宿高校で2年間ほどコーチをしました。その後、70歳間近になってから東大の監督交代の時期が来て、お声がけいただいて就任が決まりました。
―監督をする上で心がけていたことはありますか。
当時の選手たちに聞くと、私は全然怒らなかったと言いますね(笑)。あとは、野球は感覚ではなく理詰めでやらなければならないというのはずっと思っていました。選手たちにはそれを伝えていたと思います。
―最後に現役部員に向けてメッセージをお願いします。
東大生は、野球をやる上でどうしても劣等感を感じてしまうと思うんです。もちろん六大学の相手に技術や運動能力では簡単に追いつくことはできない。でも、先ほども言ったように野球は感覚よりも理論で突きつめられる部分が大きいと思うんです。動作解析なんかは1番得意な分野だと思うので、自分たちはそのような面で長けているのだと自信をもって取り組んでほしいですね。負けて当たり前に甘えちゃいけないなと思います。
〇経歴
1944年 佐賀県生まれ
1963年 東京大学理科Ⅱ類入学
1966年 プロ野球第2次ドラフト会議にて中日ドラゴンズから3巡目で指名を受ける
1986年 中日ドラゴンズ二軍監督に就任(-1991)
2020年 東大野球部監督に就任(-2022)